2017年12月14日木曜日

忘年会に、いくべきではない理由(林 誓雄先生)

 前回から少し間が空きましたが、平成29年度第11回目の「教員記事」をお届けします。哲学の林 誓雄先生です。今回は、暴走列車や池で溺れる子どもの話を使った思考実験を手がかりに、わかりやすくかつ楽しく、貧しい国や地域の人たちに対する豊かな日本に住む私たちの果たすべき義務の問題を考察されています。



忘年会に、いくべきではない理由
   
     林 誓雄(哲学


ボブはもうすぐ定年を迎える。彼は、ブガッティという非常に珍しく高価なクラシックカーに自分の貯金の大半をつぎ込んだが、その車に保険をかけることは済んでいない。ブガッティは彼の自慢の種である。この車を運転し、きれいにすることによって得られる快楽に加えて、ボブはこの車の市場価値が上がっているため、この車をいつでも売って引退後も快適に暮らせることを知っている。ある日ボブがドライブに出かけたとき、彼はブガッティをもう使用されていない鉄道の側線の終端近くに停めて、線路に沿って散歩した。そうしていると、誰も乗っていない暴走列車が線路の向こうからやってくるのに気付いた。線路のずっと先をみると、線路の上で夢中になって遊んでいるように見える子どもの小さな姿が目に入った。その子どもは暴走列車に気づいておらず、大きな危険が迫っている。ボブには列車を止めることはできず、まだ子どもはずっと遠くにいるため、大声で叫んで危険を知らせることもできない。しかし、彼は切り替えスイッチを入れることにより、列車を彼のブガッティが停車している側線に導き入れることができる。そうすれば誰も死ぬことはない———しかし、側線の終端にある防御壁は破損しているため、列車は彼のブガッティを破壊するであろう。(シンガー [2014] pp. 15-16)


 倫理学では、暴走列車(トロッコ/ トロリー)を使った思考実験が数多く提案されている。基本的なものとしては、暴走列車を放っておくと5人が死ぬことになる一方、自分の目の前にある切り替え線のレバーを切れば、5人は救われるが別の1人が死ぬことになる。さぁ、あなたはレバーを切る? それとも切らない? というやつだ。

 さて、今回は車か子どもか、である。ちなみに、ここで登場する高級車ブガッティは、先日とある雑誌を読んでいたときに見かける機会があり、目が飛び出かけたのだが、なんと3億円もするらしい。もちろん、3億円払えばそれで済む話でもなく、維持費も年間数千万はかかるとのこと。いったい、どこにそんなお金持ちがいるのやら。(そういえば、高級車アルファ・ロメオに乗ってらっしゃる先生が、いたような気がするが…)

 と、そんな話をしているのではない。車か子どもか、である。悩ましい問題である。細かな条件について詰めておくと、この暴走列車の事例では、子どもの死は必然的なものではない。もしかするとその子どもは、列車が迫っていることにギリギリで気がついて、線路から跳びのき、死なないかもしれない。だが、子どもが列車に気づいても、腰を抜かして動けなくなり、死んでしまうかもしれない。つまり、子どもの死は、不確実なものである。

 他方で、車の方はというと、ボブがその車の方に向かうよう線路のスイッチを入れると、その高級車は(必然的に)パァになる。しかし、だからといって、ボブは、自分の住む場所を失ったり、借金を背負うことになったりするわけではない。ブガッティの支払いは済んでおり、また、自宅も(それが大豪邸かどうかは不明だが)確保されている。こうした条件下で、それではボブは、あるいはわれわれがボブの立場だったとしたら、どちらを選ぶべきか。車なのか、子どもなのか。

 この事例を「紹介」しているピーター・シンガーによると(この事例自体は、ピーター・アンガーという別の哲学者による創作である)、一般的に考えて多くの人は、仮にボブが切り替えスイッチを入れずに、車に被害が及ばないようにしたのだとしたら、彼の行為は誤っていたと答えるという。なぜなら、「ボブは切り替えスイッチを入れて自分が一番大切にしている高価な所有物を破壊し、それによって経済的に安定した老後を暮らすという希望を犠牲にすることを選ばなかったからだ」(シンガー [2014] pp. 16-17)。なるほど、われわれの直観からすると、ボブは、自分の経済的安定よりも、未来ある子どもの命を、たとえ暴走列車によるその子の死が必然的なものではないとしても、優先して守るべきであるような気がする。そしてそれは、「自分たちは困っている人を助けるべきであり、少なくとも彼らが自分の目に入るところにいて、また彼らを助けられるのは自分だけである場合には、助けるべきである」という、われわれが普通に持っている信念によって、支えられるものであるように思える。そのため、ブガッティを失うことは、無辜の命が失われることと同じくらい重大な問題だ、などと主張するのは困難であるし、そのように主張する人間は、どこか性根が腐っている、あるいは不道徳だと非難されても仕方がないように見える。

 しかしながら、「実はこれは、世界の貧困問題について考えてもらうための架空の事例なんですよ」とタネ明かしをされて、そして「ブガッティよりも無辜な子どもの命の方が大事であることを認めるのなら、あなたが余分に持っているお金すべてを、アフリカで今にも死にそうになっているかわいそうな子どもたちのために寄付しましょう」と言われると、われわれの多くは途端に、先ほどの考えを撤回する方へと傾くように思われる。あるいは、次のように言われても、われわれの多くは、すぐに説得されようとはしないように見えるのである。


「もしあなたに、何か悪いことが生じるのを防ぐことができ、しかもほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることなくそうすることができるのであれば、そのように行為しないことは間違っていると、あなたは認めたのでしょう。そうであるなら、世界には何百万もの、死が迫っている状況下にある子どもたちがいます。遠すぎてわからないというなら、ほら、そのひどい状況を、こうやってネット中継して、あなたにお見せすることができます。世界がこのようであるにもかかわらず、それを無視して、自分の快適な老後のために貯蓄をすることは、道徳的に間違っています。だから、余分なお金を老後の貯蓄なんかにはまわさずに、これ以上寄付すると、子どもの命とほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることになるぐらい貧しくなるまで、あなたは寄付をするべきです。」


 このように言われると、われわれは途端に及び腰になり、この寄付を求める議論には、どこか不可解なところがあるのではないかと思うようになる。(この議論が不可解だと思わない人は、どうぞ老後の蓄えをすべて、慈善団体に寄付していただければよい。)

 この議論が不可解であり、間違っていると思われる理由のひとつとして、ボブとわれわれとの間の「違い」を挙げることができるかもしれない。ボブは、3億円もの車を購入し、それを維持できるほどの大金持ちだ。他方で、われわれ一般の人間は、例えば日本の世帯平均所得で考えるなら、年間約546万円の稼ぎしかない(厚生労働省「各種世帯の所得等の状況」)。このように、われわれ一般人とボブとの間には、その収入や貯蓄の額に大きな差がある。だから、ボブにはブガッティを犠牲にする理由がある一方で、われわれ一般人は、日々慎ましい生活をするほどの余力しかないのだから、われわれの方には、寄付をするべき義務は発生しないように思われる。

 だが、シンガーはそういう言い訳(?)を許してくれない。われわれ一般人にも、やはり寄付を求めてくる。それは、どの程度の寄付なのかというと、「これ以上寄付をすれば、自分が寄付することで防ぎうる悪い事柄とほぼ同じくらい重要な何かが犠牲になってしまうところまで」(シンガー [2014] pp. 187)である。無辜な子どもの命が失われることと同じくらい重要な何かが犠牲になるまでは、ひたすら寄付しなければならないというのだ。こりゃあ、いくらなんでも大変だ。

 いまいち、寄付を進んでする気持ちになれない私は、次のように考えてみるのである。すなわち、毎年きちんと税金を支払っている私は、すでにODA(政府開発援助)の形で、世界の貧困をなくすために寄付していることになっているのではないのか。そうであるなら、一日本国民として、世界に対して果たすべき義務を、しかも公平に負担されるべき義務を、しっかり果たしているのではないか。そして、私には、自分が負うべき公平な負担以上のことをする理由は、もはやないのではないか、と。

 しかし、この「公平な負担」論に対しては、次の事例を考えてみよ、とシンガーは切り返してくる。


あなたが浅い池のそばを歩いていると、10人の子どもが池に落ちて助けを必要としているのを目にする。辺りを見回すと、親も保護者もいないが、自分と同様、たった今池のそばに来て溺れている子どもたちを見つけ、あなたと同じくらい子どもを助けられる立場にいる大人が9名いることに気付く。そこであなたは急いで水の中に入って1人の子どもをすくいあげ、池から離れた安全なところに連れて行った。あなたは他の大人たちも同様のことをして子どもたちは全員無事だろうと思って池の方を見ると、驚いたことに4名の大人がそれぞれ子どもを1人ずつ助けたのに対し、残りの5名はそのまま立ち去ってしまったことに気付く。池にはまだ5人の子どもがいて、明らかに溺れそうになっている。(シンガー [2014] pp. 192-193)


 この事例における「あなた」は、放っておくと5人の子供が溺れて死ぬと知りながら、「公平な負担」を理由にして、1人の子どもを救っただけで、救助をやめてもよいものだろうか。シンガーの答えは「ノー」である。彼は、他の人々が自分の公平な負担を果たしていないという事実は、「あなた」が子どもを容易に助けられるにもかかわらずその子どもを見殺しにするのを正当化する十分な理由にはならないと断じる。そしてさらにシンガーは、自分の公平な負担以上のことをするのを原則的に断る(私のような)人間は、公平さをフェティシズム(盲目的な崇拝)の対象にしているのであり、一種の性格のおぞましさを露呈しているのだ、とまで言う(シンガー [2014] pp. 194-195)。

 このように、仮にシンガーの言うことが妥当であるならば、私の性根は腐っている、ということになる。すなわち、これまでやっていたような、忘年会と称して、ちょっとお高めのお店にて、同僚たちとともに、この一年、研究や教育、そして学内の仕事を本当によく頑張ったことを労い合うだとか、今年もお世話になった自分の師匠に御礼の気持ちとして、ちょっといいお酒を贈って差し上げるだとか、ゼミ生たちとクリスマスパーリィーを開催して、おおかた奢ってやるだとか、そういったことに自分のお金を費やし、他方で寄付をまったくしないでいると、それは溺れて死にそうな子どもを見殺しにすることと同じだと言われ、自分の性根が腐っていることを示すことになるのである。私は、自分の性根を叩き直すべきなのだ。私は、心を入れ替えて、これまでそういった享楽に費やしてきたお金をすべて、世界の貧しい地域の子どもの命を救うために、寄付するべきなのだ。自分の気前のよさを、周りの比較的恵まれた人々にだけ振り向けるのではなく、それを恵まれない世界の人々へと向けるべきなのだ。貧しい人々が直面している多くの問題に、恒久的な解決を与えることができるまで、われわれは、寄付をし続けなければならないのだ……。

 うーむ、シンガーの言うことはわかるのだけれど、やはりどこか、何か、しっくりこない。これはいったい、何がどうおかしいのだろう。シンガーの議論のどこかに、何かおかしい点があるのか、それともやはり、私に徳が欠けているだけなのか。性根が腐りきっている私とは違い、私の出身研究室の某先輩(今回取り上げているシンガーの本の訳者の1人)は、毎月、国境なき医師団に寄付をしていらっしゃる。大変素晴らしい先輩である。腐った自分の性根を叩き直すために、今度、その先輩の爪の垢を譲ってもらい、煎じて飲めば、寄付できるようになるのかなぁ…。

 あれ? そういえば、ブガッティの事例でも、池で溺れている事例でも、どうして子どもたちの親や保護者が、どこにも見当たらないのだろう。本来、子どもたちの命について、その責任を負うべき親や保護者たちは、いったいぜんたい、どこで何をやっているのだろう。貧困な国や地域の大人たちは、後先考えずに、子どもを好き勝手に作るだけ作っておいて、貧しさのためにその子どもたちを不幸にし、そして、その子どもたちを死へと追いやっているとも言える。仮にも、この問題の「恒久的な解決」を目指すのならば、まずはその構造から、根本的に変えていくべきである。「かわいそうな子ども」を、これ以上、生み出すべきではない。もちろん、貧しさということが、子どもをかわいそうな状態にするのであれば、その貧しさを改善するために、われわれ裕福な国の人たちが寄付をするのも一つの方策かもしれない(そしてその方策を強く推し進めるのがシンガーである)。しかし、それとは別の手段もありえる。それは、そうした国や地域の大人たちが、これ以上子どもを持たないようにするのである。子どもたちが生み出され、存在してしまうからこそ、生み出され、存在してしまった子どもたちが苦しんだり死んでしまったりするのである。逆に、子どもたちが生み出されず、存在しなかったのだとしたら、そうした苦しみや悲しみは、この世に発生しないことになる。そして、こちらの手段の方が、シンガーのやり方よりも、「恒久的な解決」に資するものだと思われる。

 最近、デイヴィッド・ベネターという哲学者が主張する「反出生主義(anti-natalism)」という考え方に、注目が集まっている。われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪である。それゆえ、害悪をこれ以上、この世の中に増やさないために、われわれには子どもを作らない義務がある、というものである。この主張を支える議論は、極めて難解なものではあるけれども(詳しく知りたい方は、ベネター『生まれてこない方が良かった』を読んでみてほしい)、仮にこの議論・主張が妥当だとするならば、貧困のために子どもの命が危機にさらされるような国や地域の大人に対して、避妊や(初期段階の)中絶を奨励することが、道徳的に正しいことになる。そうだ、それがよい。今後、子どもたちが生み出されない・存在しないのであるなら、彼らに関する悲しみや苦しみがこの世に生み出されることはなくなる。子どもたちが、死ぬこともなくなる。そしてそのことに、われわれは思い悩むこともなくなるのである。

 線路の上で遊ぶ子どもにも、池で溺れている子どもたちにも、これからは出会うことがなくなる。したがって、命の危険にさらされている子どもを救う義務を、われわれが負うこともなくなるのであり、われわれは寄付をしなくてよくなるのであり、自分で稼いだお金を、これまで通り、自分の楽しみに、あるいは自分の仲間との楽しみに、惜しみなく使うことができるようになるのである……。

 さて、このように、性根が腐りきっている私は、なんともうまい結論を引き出したもんだと思われるかもしれない。すなわち、貧しい国や地域の人たちが子どもをもたないようにしてもらうことで、自分が寄付をする義務を消し去り、自分のお金を自分の使いたいように使える状態にしたのだ、と。確かに、私の寄付をする義務は、ベネターの「反出生主義」を使うことで、消し去ることができるのかもしれない。しかし、「反出生主義」を支持することは、次のような反直観的な結論にもつながってしまうことを覚悟しなければならない。

 「反出生主義」は当然のことながら、人間であれば誰にも当てはまるものである。すなわち、「われわれは皆、子どもをもたない(これ以上もうけない)義務をもつ」と言われるのである。なぜなら、われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪であり、人間を存在してしまうようにすること(=子どもをもうけること)は、害悪をこの世に生み出すことに寄与することになるからである。(ただし、「反出生主義」においても、「死」は悪いものなので、すでに存在してしまっている人間については、なるべく苦しみや悲しみを受けることなく生きるよう努力すべきとされる。)かくして、「反出生主義」にしたがうと、最終的にわれわれ人類は、絶滅することになる。そしてそれこそが、道徳的に目指すべき状態なのだと言われるのである……。

 さて、どうしたものか。やはり私は、忘年会なんぞには行かずに、あるいは今後は贅沢することを慎んで、余ったお金を貧しい国や地域の人たちのために寄付しながら生きていくべきなのか(おそらく、それが正解)。それとも、忘年会に行って(なんなら新年会にも行って)、自分のお金を好きなように使いながら、それでいて、人類の絶滅を導くように、生きていくのか。どちらが、正しい道なのか…(多分前者)。寄付をするのか、絶滅か……(だから、前者だって)。考えるのも疲れたので、とりあえず、酒でも飲みに行こうかしら。


参考資料

  • 厚生労働省「平成28年国民生活基礎調査の概況 II 各種世帯の所得等の状況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa16/dl/03.pdf)(2017年12月14日閲覧)
  • デイヴィッド・ベネター [2017] 『生まれてこない方が良かった:存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宣義 訳、すずさわ書店
  • ピーター・シンガー [2014] 『あなたが救える命』児玉聡・石川涼子 訳、勁草書房


2017年11月30日木曜日

白川琢磨先生最終講義のお知らせ

文化学科の教員として長きにわたり教鞭をとられてきた文化人類学の白川琢磨先生が、来年3月で定年を迎えられキャンパスを去られます。

最後の講義は以下の日時、内容で予定されていますので、在学生の皆さん、卒業生の皆さん、ぜひお集まりください。


白川琢磨先生最終講義

日時:2018年1月11日(木)2限(10時40分~12時10分)

場所:福岡大学8号館823教室

講義科目:文化人類学B(総合教養科目)

テーマ:レヴィ=ストロースとエマニュエル・トッド

2017年11月28日火曜日

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内

 私たち教員は分野に応じていくつかの「研究チーム」を運営しています。
 お互いの研究などを持ち寄って、発表したり討議したりすることは、研究活動を進めていく上でとてもよい刺激になっています。
 下記の研究チーム発表会を開催いたしますので、学生の皆さんもふるってご参加下さい。今回は中村未来先生のご発表です。普段の授業での「教員としての顔」とは違う、「研究者としての顔」を見られるチャンスかもしれません。
 文化学科の皆さんは参加自由です。参加したからと言って発言の強制などもありませんので、お気軽に聴講してください。

「善と悪に関する思想的研究」研究チーム代表 平井靖史


領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」

平成29年度 第3回研究会

・日時:12月13日(水)、16:30-18:00

・場所:A613 教室

・提題者:中村未来先生

・題目:「中国古代における殺人観」



2017年11月26日日曜日

私の選んだ道(LC16台 大谷真夕さん)

 今年度13回目の学生記事をお届けします。LC16台の大谷真夕さんが、将来の夢や文化学科に進学した理由、現在の大学生活について紹介してくれました。



私の選んだ道


LC16台 大谷真夕

 みなさんこんにちは! 人文学部文化学科 2 年の大谷です。

 私には、憧れている先生のような高校教師になりたいという夢があります。

 このように考えるようになったのには理由があります。私は高校1・2年生まで漠然と、持ち前の明るさを活かして人と関わる仕事に就きたいと思っていたのですが、明確には決まっていませんでした。高校 2 年生の終わりごろ、知り合いの看護師から話を聞いたのをきっかけに看護師という仕事に興味を持ち、看護大学のオープン キャンパスに行ったり、本やネットで医療について調べたりしました。その一方で、自分に向いている仕事ってなんだろう? もしかしたら自分に向いている仕事、私にしかできない仕事がほかにもあるのではないか? そもそも向いているって何? と思っている自分もいました。

 高校3年生になり、看護の道に進むか、福岡大学へ進学するか迷っていた私に、担任の先生が親身になって進路相談に乗ってくださいました。看護大に通うOGの先輩と話す機会を設けてくださり、忙しいにもかかわらず放課後に残って、嫌な顔一つせず私の話を親身に聞いてくださる先生を間近で見ているうちに、教師という職業の魅力に気がつきました。私は日本史が好きだったので、高校の社会(地理歴史・公民)の先生になろうと思いました。はじめ、歴史が専門の歴史学科に入ろうかとも迷ったのですが、社会科の教師になったときに、外国と比較した日本文化や、哲学、心理学など、歴史だけではない色々なことを子供達に教えられる教師になりたいと思い、文化学科を受験することに決めました。そうと決めてからは、友達5、6人で日々放課後を使って励まし合いながら勉強しました。その結果、私が通っていたのが福岡大学附属若葉高校の「福大コース」だったことも幸いして、第一希望の文化学科に入学することができました。

高校時代の青春を共にしたテニス部の仲間。看護師になるために専門学校や看護大学に通っていたり、薬剤師を目指して宮崎の大学に通っていたりと、普段はそれぞれの場所で夢に向かって頑張っていますが、今でも長期休暇に入るとよく集まります。年をとってもずっと付き合っていきたいと思える存在です。

 私は入学当初、大学はカリキュラムを自分で組むことや、福岡大学は学生数も非常に多いことから、友達は多くできないと思っていました。しかし、文化学科は他学部や他学科に比べて学生数が100人程度と少なく、1年生から少人数のゼミがあったので、すぐに顔見知りになり仲良くなることができました。2年生では自分でゼミを選択することができるため、私は興味があった心理学を専攻し、佐藤基治先生や現在のゼミのメンバーと出会いました。メンバーは皆個性豊かで、パン屋でアルバイトをしている友達が持ってきてくれたパンをみんなで食べたりするほど、アットホームな雰囲気のゼミです。夏休みにゼミのみんなで集まってBBQをするほど仲がいいです。授業では、3人ずつのチームに分かれてまず実験テーマをきめ、E-Primeという心理学実験用のpcソフトを使いながらながら、それぞれの実験テーマに沿って実験を進めていきます。最終的には、各チームが自分たちが調べたことをパワーポイントを使って発表し、それに対して他のゼミ生は質問をなげかけ、発表者がそれに答えるという、とても活気のある授業でした。

佐藤ゼミの仲間たちと!
(主役の、みんな大好き佐藤先生は光で飛んでしまっていますが…笑)

 また、サークル活動では高校からしていたテニスを続けています。週に1、2回、仲間たちと思いっきり体を動かすのは、気分転換やストレス発散になり、とても楽しいです。たまにバイトが無い日は、先輩や同期とドライブに行ったりもして、充実した休日を過ごしています。

夏の大会で健闘した後のやりきった感…!

 私はボランティアサークルにも所属しています。障害を持ったお子さんとそのご家族が開催している泊りがけの勉強合宿に参加したり、養護施設の子ども達とレクレーションを楽しんだりします。子ども達はとても元気がよく、一緒になって遊ぶとかなりへとへとになるのですが、毎回パワーをもらいます。これらの活動は楽しいだけではなく、子ども達から学ぶことや気づかされることも多くあり、とても勉強になります。子どもが心を開いてくれた時や、懐いてくれた時は、本当になんともうれしい気持ちになります。

 文化に興味がある、社会科教員になりたい、という人はもちろん、自分が将来何をしたいか明確に決まっていない、広い視野を養いたい、いろんな角度から物事を考えられるようになりたい、と考えている皆さん。文化学科では、様々な分野を幅広く勉強することが出来ます。文化学科に入って興味のあるものを片端から学び、新しい自分を見つけてみませんか?

2017年11月20日月曜日

平成29年度 卒業論文発表会開催のお知らせ

下記の日程で、今年度の卒業論文発表会を開催します。

 日時 1月29日(月)13:00~16:00 ※開催時間は若干変更の可能性あり
 場所 文系センター棟15階

詳しい発表形式やプログラムなどについては、改めて後日、このブログ上で告知します。

四年生はもちろん、一年生から三年生の皆さんもぜひ会場へ足を運び、先輩方の研究成果を確認してみて下さい。

何か不明な点があれば、教務連絡委員の小笠原か本多まで。

卒業論文発表会関連記事
 平成27年度卒業論文発表会
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 平成28年度卒業論文発表会が行われました
 卒業論文発表会に参加して

2017年11月18日土曜日

「時間が止まる」視覚現象の解明(LC16台 宗雲菜生さん)

 今年度12回目の学生記事をお届けします。LC16台の宗雲菜生さんが、所属している佐藤基治先生のゼミについて、自分たちで実際に行った実験の内容を中心に紹介してくれました。



「時間が止まる」視覚現象の解明


LC16台 宗雲菜生

 この記事では、佐藤基治先生のゼミについて取り上げたいと思います。

 佐藤先生のゼミでは、心理学についての理解を深めることが出来ます。

 心理学とは、人はどういった心境の時にどんな行動をするのか、身体はどう反応するのかという、心と行動、身体のメカニズムを解明していく学問です。

 その中でも佐藤先生は認知心理学を専攻されており、このゼミでは知覚、記憶、思考など人間の心的機能の研究をしています。

 ゼミでは、3人~4人で1グループを構成し、それぞれの興味のあるテーマを決めます。私たちのグループが興味を持ったのは「時間が止まる」というテーマです。「時間が止まる」現象の例として一番に挙げられるのは、ふと時計に目をやると動いているはずの秒針が普通より長い時間止まっているように感じる、というものです。これは「クロノスタシス(Chronostasis)」という錯覚現象で、対象から対象へ素早く視点を動かす「サッケード(Saccade)」という眼球運動が関係しているそうです。このテーマの研究をしようと決めた理由は、私も秒針が長い時間止まって見えた経験があり、その現象には心理的なわけがあるということに驚き、興味を待ち、それを知りたいと思ったからです。テーマが決まると、それを実験するにあたって、どのような背景があるのか、実験の目的は何か、どのような実験を行うのか、結果の処理の方法はどうするのか、そしてどのような結果が予測されるのかを、スライドにまとめ発表します。他のグループに発表を聞いてもらい、質問を受けたり、疑問点を聞いたりアドバイスをもらうなどして、研究のやり方を見直し、改善します。

 私たちのグループの実験は、被験者に、モニターの左上にあるX印を見ていてもらいます。数秒後にモニターの右下に「0」の数字が表示されます。表示された瞬間にサッケードをして「0」を見てもらい、「0」から「1」「2」「3」「4」とカウントアップされていく数字を見てもらうというものです。「1」「2」「3」「4」の数字が切り替わる間隔はぴったり1秒なのですが、「0」から「1」の間隔は0.8秒から1.2秒と様々なパターンを作りました。そして「0」から「1」の間隔が他の数字の間隔と比べて短いか、同じか、長いかを識別してもらいました。その結果、「0」から「1」の間隔を他の数字と同じ1秒にしたとき、1秒より長く感じている人が50%いました。なぜこのように実際より長く感じてしまうのかというと、対象から対象へと視点を移している間の風景は、私たちの脳内では無視しているため、視点を動かしている間にカウントされている数字を見てもそれを理解するのが遅れ、時間を普通より長く感じるそうです。

研究室ではパソコンなども使えます

 このようにして、このゼミでは、グループで考え、意見を出し合い、まとめて、1つのテーマについて理解を深めることが出来ます。そして、佐藤先生は、私たちの研究にとても協力的で様々な資料を用意してくださったり、心理学の研究室を開放してくださいます。そのため授業が無い時や、少し時間が空いたときなどには研究室で勉強をするなど有意義な時間を過ごすことが出来ます。また、研究に関係すること以外にも、佐藤先生から心理学に関する色々なお話を伺うことが出来ます。親しみやすい環境で心理学の学習・実験に携わることができるのが、佐藤先生のゼミの特徴であると思います。

空いた時間は課題などが出来ます

 私たちは日常の中で、心理的な現象を度々経験しています。それは、私たちが意識していないうちに起きているものもあれば、経験した後に不思議に思うことなど様々です。それらの身近な現象の原因は、心理学の実験をしてみなければければわからないので、興味がある方はぜひ文化学科の佐藤ゼミで認知心理学を専攻してみませんか。

2017年11月10日金曜日

私の空きコマの過ごし方―中央図書館の有効活用(LC16台 鍋島明莉さん)

 今年度11回目の学生記事をお届けします。LC16台の鍋島明莉さんが、中央図書館の有効活用法を紹介してくれました。



私の空きコマの過ごし方―中央図書館の有効活用


LC16台 鍋島明莉

 みなさんこんにちは! 文化学科2年生の鍋島です。私はこの1年余りの学生生活で学んだ、空きコマの有効活用の仕方について、まとめたいと思います。

 空きコマとは何でしょうか? 大学生は、時間割が決められている高校生までとは違い、自分で受けたい授業を決めて時間割を作成しています。その中で例えば1限と3限が授業で2限は授業が入っていないなどといった日があります。その2限の時間が空きコマになります。1週間の中で空きコマはたくさんあります。ここで授業が無いからといってぼんやり過ごすのではなく、福岡大学の広大な敷地の中にある便利な施設を使った有効な過ごし方について述べたいと思います。

 今回私は、中央図書館を使った空きコマ利用の仕方を紹介します。


 

 2012年7月に開館した新中央図書館は、大学の中央に位置しており、蔵所数は約126万冊を数え、収容能力の高い自動書庫を備えた西日本有数の大学図書館です。中央図書館は、空きコマを利用して一人で黙々と勉強したいときに、おススメの場所です。このように薦める理由は、勉強するスペースが学内で一番多くあるからです。学生が約2万人いる福岡大学ですが、定期試験前の混雑時でも学習机を確保できます。館内は、とても静かで温度も快適に設定されているため、本当に集中して勉強することが出来ます。私はよくここで、授業の予習や復習、宿題、各種の検定の勉強などをしています。


 また、図書館は一人で勉強する場所だけでなく、友達と教え合いながらの勉強や少人数で話し合いができるスペース(ラーニング・コモンズ)もあります。ここではゼミなどで発表の下準備などをしている人をよく見かけます。こちらのスペースでは声を出しても、一人で勉強をする人がいるスペースと少し離れているので邪魔になることはありません。


 図書館にはDVDを見ることが出来るコーナーもあります。勉強で疲れた頭を一旦リラックスさせたいときや気分転換をしたいときに利用してみてはいかがでしょうか? スタジオジブリなど有名な作品もたくさんそろっています。もちろん図書館ですので本を読むことも空きコマの有効な使い方だと思います。

 また、アルバイトをしている人は、アルバイトが終わって、夜に帰宅した後で勉強をする気分になれないことも多いかもしれません。実際に私もそのように思う日は沢山あります。しかし、私は空きコマを利用してその日の復習、次の日の予習を終わらせているため、夜更かしせずに規則正しく就寝し、翌日に頭がきちんと働いた状態で授業に臨むことができています。また、秘書検定が近い時期には、図書館を利用して勉強をしていました。他のどの場所でやるよりも集中することができましたので、無事に合格できました! 皆さんも、ぜひ空きコマを有効活用して、大学生活を充実させましょう!