2018年2月12日月曜日

いぬなっじ(平田 暢先生)

 平成29年度第13回目の「教員記事」をお届けします。社会学の平田 暢先生です。今回は、犬を飼うとアフリカで貧困問題に苦しむ子どもが助けられる可能性が高まるのでは、というお話です。



いぬなっじ
   
     平田 暢(社会学


 12月の教員記事で、林誓雄先生が「忘年会に、いくべきではない理由」というタイトルで大変面白い倫理学的な思考実験を紹介されています。トロッコ問題(trolley problem)と言われるもので、暴走してくる機関車に対して線路を切り替えると子どもを救えるが、その代わりに自分の愛車Bugattiは破壊されてしまう状況でどうすべきか、という問題です。線路を切り替えなければかなりの確率で子どもは轢かれますが、愛車は助かります。

 つい、色々と考えてしまったのですが、自分の選択によって犠牲になるもの(=愛車のBugatti)、救われるもの(=線路で遊んでいる子ども)の属性が気になるところです。犠牲になるものがBugattiではなく新車のFerrariだったら、5年落ちのAlfaRomeoだったら、車ではなく自宅だったら、車に自分の親が乗っていたら、配偶者だったら、自分の子どもだったら、あるいは見知らぬ外国人の男性だったら・・・。救われるべきものも同様に様々なバリエーションが考えられます。今年は戌年ですし、どっちかが犬やったらどうすんねん、ということも気になります。

 ちなみにBugattiですが、1909年創業のBugattiと、現在3億円也のChironというモデルを生産しているBugattiは、実態としてはまったく別の会社のようです。上記トロッコ問題の主人公であるボブさんが購入したのは、「珍しく高価なクラシックカー」となっているので、恐らくもともとのBugattiが生産していたモデルだと思われます。貯金をはたいて購入し、きちんとレストア、メンテナンスをしていれば将来的に価格は上がるはずなので、老後のための投資になる可能性はありそうです。とか思いながらネットで探してみると、1930年代のモデルの日本での落札価格が11億円!。あびっくりした。モデルと車の状態によっては数百万円くらいからあるようですが、他方で現行モデルの新車価格が安く思える価格がつくこともあるようです。という訳で、ボブさんがどの程度のお金持ちかはほとんどわかりません・・・。

 それはともかく、犠牲になるのがBugattiではなく、15年飼い続けた老犬だったらどうすべきなのでしょうか。私のところの犬も1月で15歳になったので(結構うれしかったりする)。ちなみに、一般社団法人ペットフード協会の調査によると、日本における犬の平均寿命は14.2歳だそうです。15歳では確かに残された時間は長くはないし、犬は人よりも存在として劣るのであれば、やはり子どもを救うべきなのでしょう。

 伝統的なキリスト教的価値観に従えば、犬には魂がないことになっているので、優劣は自ずと明らか、ということかもしれません。しかしながら、日本では多くの人が犬にも魂があると思っているようですし、2代前のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は「動物も魂を持っている」、現教皇フランシスコは「天国は神が造られたすべての生き物に開かれている」と発言していて、どうも色々と議論になっているようですが、もしこれらの発言を肯定すると犬にも魂がある、ということになりそうです。魂の格、のようなものがあるのか否かわかりませんが、善良さの点ではどうも犬の魂の方が人間の魂よりも格上のような気がします。地上にはそのような魂の持ち主が大勢いた方がよいのであれば、犬を救うべきなのかもしれません。

 それもともかく、以下では救われるものの方に焦点を当ててみたいのですが、その子どもを救うべきか否か、という生身の個人の判断には社会的距離(social distance)というものが関わっていそうです。社会的距離とは他者に対する親密さや共感できる程度のことで、相手の社会的距離によって我々の感情のあり方、反応は違います。社会的距離の近い相手の方が自分にとって大事で価値があるということが普通なので、線路で遊んでいる子どもが自分の孫である場合、ボブさんは躊躇なく線路を切り替えるはずです。しかし、何となく知っている近所の子どもの場合、あるいはまったく知らない子どもの場合では、切り替えはしても、決断するまでにかかる時間は長くなるかもしれません。

 実は冒頭の思考実験のポイントは、線路で遊んでいる子どもと貧困に苦しむアフリカの子どもは同じであり、愛車Bugattiを犠牲にして線路で遊んでいる子どものを救うのであれば、余分なお金すべてをアフリカで貧困に苦しむ子どもに寄付すべき、というさらに大きな問いを投げかけることにあるようです。しかしながら、生身の個人の感覚、あるいは感情から考えると、貧困に苦しむアフリカの子ども、というのは確かに危機的な状況にあると言う点で線路で遊んでいる子どもと同じかもしれませんが、自分の目が直接届く範囲にはおらず、無論親戚でもなく、社会的距離は随分と遠い存在です。目に見えて危機的状況にある子どもと、遠い異国の地で危機的状況にある子どもは、生身の個人から見ると同一のものとしては見なせないはずです。


 このように考えて図1を作ってみました。選択者であるボブさんと線路で遊んでいる子どもとの社会的距離を横軸に、ボブさんにとってのその子どもの価値を縦軸におき、両者の関係を表してみたものです。ボブさんにとって、社会的距離が遠くなるほど相手の価値は下がると考えられるので、社会的距離と価値の関係は右下がりの減少関数になると思われます。もちろんこの線はボブさんに固有のものです(図1-1)。人によっては水平の線になったり、右上がりになることもあるかもしれません。さらにそこにBugattiである自分の車の価値を書き込むと、自分の車の価値を示す横線との交点が出てきます(図1-2)。この交点の左側は、子どもの価値が車の価値を上回っているのでボブさんは線路を切り替えて子どもを救い、右側では車の価値が子どもの価値を上回るのでボブさんは線路を切り替えないで車を救うと考えられます。


 このような状態で子どもを救う可能性を広げるにはどうしたら良いでしょうか。1つのアイデアは車の価値を変えることです。もし図2のように、自分の車が何者にも代え難い至上の価値を持つと、孫であっても救わないということになってしまいます。しかし、図3のように車の価値を低く見ることができれば、どんな社会的距離にある子どもでも、つまりすべての子どもを救うことになります。

 ここでは子どもの価値と自分の車の価値とで見ていますが、子どもと対比されるものは何でもよく、それこそ15年間飼っている犬でも良いわけです。車であれば環境に良くないとか、事故の可能性とか色々と理屈をつけて価値を下げることは比較的できそうですが、現に生活をともにしている、しかも魂が格上の(?)犬の価値を下げることは大変難しい気もします。また犠牲になりうるものは無数にありますし、いちいち見ていくのも大変です。


 そこで、もう1つのアイデアは減少関数である右下がりの線の形を変えられるか、ということになります。たとえば図4のように、社会的距離が遠くなると急激に相手の価値が下がってしまう人の場合、ごく近い相手しか救わないことになります。逆に、図5のように社会的距離が遠くなってもゆっくりとしか相手の価値が下がらなければ、救われる子どもの割合は高くなります。このように、線の下がり方を緩やかにする工夫はないものでしょうか。

 工夫、と言いましたが、昨年来「ナッジ(Nudge)」という言葉を耳にした人も多いと思います。ひょっとすると、今後人々がよく知る言葉になるかもしれません。昨年ノーベル経済学賞を受賞したR.セイラーと共同研究者のC.R.サンスティーンが、人々が適切な選択ができるように促す方法として提唱している言葉です。ナッジとは、本来「ひじでそっと突つく」という意味で、規則で禁止したり、強制したりではなく、余りコストをかけずにまさに「促す」ための工夫を言います。

 オランダのスキポール空港は、男性用トイレの床の汚れがひどかったのですが、ナッジを利用して清掃費を8割減らした、という有名な話があります。「飛び散らないように注意しましょう」という張り紙をしたのでも、小便器を総取り替えしたのでもありません。小便器の内側に1匹のリアルなハエのシールを貼っただけです。ぱっと見本物のハエに見えるので、つい狙ってしまうのですね。その結果、飛散が減ったのです。

  子どもの貧困対策で考えると、World Vision(ワールド・ビジョン)という、緊急人道支援や開発援助を行っている規模の大きな国際NGOの「チャイルド・スポンサー」という仕組みが思い浮かびます。これは、支援を必要としている特定の子どものスポンサーとなる形で自分の寄付を使えるというもので、漠然とした支援を必要とする「誰か」ではなく、顔と名前を持った「この子」を支援するというのは、社会的距離が近くなるため、より寄付行為を促せるのではないかと思います。よく考えられた仕組みだと思います。

 で、犬の話なのですが。

 スタンレー・コレンという、犬に関する著作も多数ある心理学者によると、家に犬がいる子どもは社交的で思いやりも深いことがわかっているそうです。犬と仲良くなるには、犬の表情やボディランゲージ、行動を観察し、犬の出している社会的信号を読み取らねばなりません。たとえば、あくびをするのはむしろ緊張や不安のサインである、口が軽く開いているのはリラックスしているとき、前足を伸ばしてお辞儀するような格好で尻尾を振っているのは遊ぼうのサイン、などなどです。人の話を何も聞いていないように見えるときの犬は人の話を何も聞いていない、はそのままですね・・・。

 そのような経験は、人との関係でも生かされ、犬を飼っている子どもは言葉によらないコミュニケーション能力や仲間とのふれあいといった社会的能力が高くなります。犬の生存と幸福が自分にゆだねられていることを知り、ひいては他者への共感能力も培われるということのようです。これもコレンの著作で知ったのですが、イギリスで初めて動物虐待禁止条例を可決させたリチャード・マーティン(1754-1834)というアイルランド人政治家は、宗教的迫害を受けたカトリック教徒やナポレオン戦争で家を失った難民に私財をなげうって自分の土地と新築家屋を無償で提供したそうです。それも千戸以上。アメリカにおける動物愛護協会の創始者ヘンリー・バーグ(1811-88)も、児童福祉活動を本格化させるきっかけを作った人だったようです。また、冒頭のトロッコ問題を紹介し、貧困に苦しむ子どもへより多くの寄付を呼びかけているピーター・シンガーという倫理学者は、貧困の問題もさることながら、動物の権利を強く主張する動物解放論者として知られており、『動物の解放』という有名な著作があります。

 犬を飼うことで他者への共感能力が高まるとすると、それはおそらく身近な人だけではなく、遠くの見知らぬ人へも及ぶようになるということでしょう。つまり、時間はかかるかもしれませんが、犬を飼うことがナッジとして機能し、そのような人が増えれば貧困にあえぐアフリカの子どもが救われる可能性は高まると考えられます。

 無論、他者への共感能力を高める、という効果があれば、飼うのは犬である必要はなく猫や他の動物でも良いはずです。あるいは、そもそも何も飼わなくても、多くの人と楽しくお酒を飲むことで同様の効果が期待できるかもしれません。

 さきほどのペットフード協会によると、日本全国の犬の推計飼育数は892万匹で、ここ数年減少傾向にあるそうなのですが、犬を飼うことを促すという意味では、犬と接する機会を増やすこともナッジになると考えられます。そこで、ペット可の施設を増やすのはどうでしょう。たとえばスウェーデンでは、電車やバスにペット可の車両があり一目でわかるようになっているそうなのですが、一般のオフィスでもペット可のところが数多くあるようです。同時にスウェーデンは、よく知られているようにもっとも有名な高福祉国家でもあります。ただし、スウェーデンは動物保護・管理の面でもきわめて厳しく、犬を6時間以上監視なしで1匹だけにさせてはいけないなど細かい規制も多く、簡単に犬を飼える社会ではないようですが・・・。

 犬を飼う、というのはそれなりにコストがかかるので、もっと手っ取り早い(?)方法としては、貧困問題への寄付を募るポスターをペットショップや動物病院に集中して貼る、というのも効果的かもしれません。

 と、いうことで林先生、みなさんと飲みに行く機会を増やして下さい。犬を飼いませんか。


参考文献

・R.セイラー・C.R.サンスティーン,遠藤真美(訳),2009, 『実践行動経済学』,日経BP社.
・S.コレン,木村博江(訳),2002,『相性のいい犬、悪い犬』文春文庫.
・S.コレン,木村博江(訳),2002,『犬語の話し方』文春文庫.
・S.コレン,木村博江(訳),2011,『犬があなたをこう変える』文春文庫.
・一般社団法人ペットフード協会ホームページ[http://www.petfood.or.jp/index.html]
・国際NGOワールド・ビジョンホームページ[https://www.worldvision.jp/]

2018年2月6日火曜日

平成29年度卒論発表会が開催されました

1月29日(月)に卒論発表会が開催されました。今年は口頭発表が2名、ポスター発表が17名でした。


 まずは、福澤萌さんが「化粧におけるジェンダー」というタイトルで発表をおこないました。化粧の位置づけの変化を日本の歴史からたどったうえで、西洋式の化粧が入ってきた後の近代日本における化粧について紹介したうえで、その特徴を分析。質疑応答では、「大正時代のモボ(モダンボーイ)はどうだったのか」「身だしなみと化粧の線引きは?」など、論文の根幹にかかわる問いも投げかけられました。

 次は、大学院社会・文化論専攻の長谷川正太郎さんによる修士論文「日本の人名に関する文化人類学的考察ー統合と差異化の原理を中心に」の発表でした。日本の人名、とくに名前の付け方が現代日本でどのように変化してきているのか、じっさいの名付け本を紹介しながら、お話してくださいました。教員もみんな興味津々。多くの質問が飛び交い、発表が終わったあとも、発表者を呼び止めて議論が続いていました。

そして、後半はポスター発表。二つの部屋に分かれて、色とりどり様々なデザインのポスターが並びました。自分のポスターの前でプレゼンするのはちょっと恥ずかしい・・・と初めは思っていた学生さんも気づくと堂々と質問に答えるようになって、多くのポスターの前で議論が勃発。発表を聞きに来ていた下級生たちは、来年は自分たちがと気を引き締める一幕も。

卒業論文は、4年間文化学科で学んだことの集大成。ここに学生生活が詰まっていると言っても過言ではありません。 ぜひみなさん卒論を書きましょう!

2018年1月31日水曜日

平成30年度文化学演習の所属希望調査について(連絡)

文化学科学生各位

《重要》平成30年度 文化学演習所属希望調査について


◆平成30年度 新2年生(LC17台)・再履修者各位
 平成30年度の文化学演習Ⅰ、文化学演習Ⅱの所属希望について、下記の要領で提出して下さい。

◆平成30年度 新3年生(LC16台)・新4年生(LC15台)・再履修者各位
 平成30年度の文化学演習ⅢⅣ、文化学演習ⅤⅥの所属希望について、下記の要領で提出して下さい。

  1. 演習Ⅰ・Ⅱ(LC17台および再履修者)については、配布された「演習所属希望調査票」を前期と後期で各1枚提出して下さい(再履修を除くと、各自2枚提出)。
  2. 演習Ⅲ-Ⅳ、Ⅴ-Ⅵ(LC16台・LC15台)については、配布された「演習所属希望調査票」を前・後期通じて合計1枚提出してください(再履修を除くと、各自1枚提出)。ただし、再履修の場合は1科目(半期)ごとに1枚提出してください。
  3. 提出先は文系センター棟低層棟1階のレポート提出ボックスです(下記案内図参照)。
  4. 提出期間は 平成30年3月16日(金)~19日(月) 16:50  <厳守> です。提出がない場合や期限に遅れた場合は、教務・入試連絡委員が所属を決定します。 ※何らかの事情で上記の期間中に提出できない場合は、事前に教務・入試連絡委員(小笠原か本多)へ相談して下さい。
  5. 決定した演習の所属は、3月22日(木)の9時までにFUポータルと人文学部掲示板で発表します。
  6. 演習所属に関する問い合わせは、文化学科の教務・入試連絡委員 小笠原か本多まで。

※注意事項
  1. 演習ⅢとⅣ、ⅤとⅥは前期と後期で同一教員の演習に所属することになります。
  2. 演習の所属は原則として本人の希望に基づいて決定します。ただし、希望人数が定員を超える場  合は、平成29年度の成績に基づいて調整します。
  3. 各演習の内容については、3月上旬以降にFUポータルでシラバスを閲覧することができます。『文化学科 教員紹介』も参考にして下さい。
  4. 登録制限科目を履修する場合、所属を希望する演習の開講曜日・時限と重複しないように注意してください。
  5. 学芸員を志望者する3年生 (LC16台)は、必修の「博物館資料保存論」(火曜5限<前期>)が、火曜5限<前期>の文化学演習Ⅲと重なっています。学芸員必修科目を履修する場合、火曜5限の文化学演習Ⅲ・Ⅳは履修できませんので注意して下さい。
  6. 再履修が必要な場合、必要な用紙を別途用意し、「再履修」欄に必要事項を記入して提出してください。
  7. 「演習所属希望調査票」が手元にない場合は下記からダウンロードしてください。文化学科のFUポータルからもダウンロードできます。ダウンロードした用紙は配布したものと色が違う場合がありますが構いません。






2018年1月18日木曜日

卒業論文発表会のお知らせ

 下記の日程で卒業論文発表会を執り行います。
 今年は第一部を口頭発表、第二部をポスター発表の形式で行います。4年生のみなさんはもちろん、これから卒論に取り組むことになる1年生から3年生も是非足を運んで、先輩たちの力作をその目で見、ぜひ質問し議論してください。



□日時 2018年1月29日(月)13:00〜16:00
□場所 文系センター棟15階 第5会議室、第6会議室、第7会議室

 詳しいタイトルなどは下のプラグラムをご覧下さい。

発表者は12:30までに来場し、ポスターの貼付を行ってください。


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2018年1月11日木曜日

白川琢磨先生の最終講義が行われました

 明けましておめでとうございます。2018年最初の記事をお届けします。



白川琢磨先生の最終講義が行われました


 1月11日(木)に文化学科の教員として教鞭を執られてきた文化人類学・民俗学白川琢磨先生が最終講義を行われました。

  白川先生の福岡大学へのご着任は平成14年で、15年以上文化学科のみならず大学院の社会・文化論専攻、人文学部、福岡大学のために尽力されました。今年3月で65歳の定年を迎えられ、キャンパスを去られます。

 白川先生は、文化資源をめぐる地域共生戦略や宗教民俗形成における中世地方寺院の位置づけ、金毘羅信仰の歴史的動態といったテーマに精力的に、また幅広く研究をなさってきました。膨大な研究業績をお持ちです。また、福岡県文化財保護審議会専門委員や福岡県英彦山調査指導委員会副委員長、国立歴史民俗博物館の運営会議委員、大分県文化財保護審議会委員などを歴任され、数多くの社会的貢献もなさっています。白川先生の謦咳に接し、福岡市博物館の学芸員をはじめ各方面で活躍する卒業生も数多くおられます。


 今回の最終講義では、通常の授業の最終回も兼ねて「レヴィ=ストロースとエマニュエル・トッド」をテーマに講じられました。学科の学生にとっても駆けつけた卒業生にとっても、白川先生の講義を受ける最後の機会となり、皆、集中して聴講し、先生が講義されるお姿を心に焼きつけていたようです。

  講義終了後は、在学生と卒業生から感謝の言葉とともに花束が贈られ、教室からは大きな拍手が起こりました。


2017年12月29日金曜日

知的に自由であるということ(平井靖史先生)

 平成29年度第12回目、今年最後の「教員記事」をお届けします。哲学の平井靖史先生です。今回は、平井先生が代表を務められた国際研究プロジェクトPBJ (日本ベルクソン・プロジェクト Project Bergson in Japan)について、マネジメントのご苦労と、その苦労を大きく上回る他では得難い知的な歓びと自由について熱く語られています。



知的に自由であるということ
   
     平井靖史(哲学

 2015年から2017年までの三年間、平井はとある国際研究プロジェクトの代表を務めました。文科省の科学研究費というところから財源をもらって、一年に一度、合計三回の国際シンポジウムを企画・運営・出版するという大きなお仕事のとりまとめ役と言うと立派に聞こえますが、まあやっていることは発表者に登壇を打診したり、皆さんの出張の書類作ったり、ホームページ作ったり、開催にかんする事務手続きなどをする、雑用が大半です。でも、なかなか得がたい経験で、そこからあらためて学ぶことも多くあったので、ご報告がてら少しお話しします。

図1 シンポジウムのポスター

図2 論集として出版
 まず、書類がびっくりするくらい多いです。例えば国内の他の大学からも先生をお呼びします。すると、その先生自身の代理出張手続きをこちらがするのですが、それだけでなく、福岡大学の人文学部長から、その先生の大学の所属部長宛てにその先生を出張させることを許可して下さいという依頼の文書を作って、さらに、その先生を出張させることを向こうの所属部長がうちの学部長に許可しますよと返事をする承諾の文書も僕が作り、先の依頼文書と一緒に送ってそれにはんこを押して返してもらいます。ん?違うか、うちの学部長がじゃなくて向こうの所属部長がその先生を出張させるように命令してくれるようにうちの学部長が依頼をする(ように僕が学部長に依頼する)のだから、それに対して承諾するということは、向こうの所属部長にしてみれば、自分が自分のところの先生に出張命令を出すことを依頼してくることに対して許可を出していることになる(命令させるようにお願いしてもいいよ?)…のかな?あーもう分からんし!ちなみに返信用封筒の切手貼りと宛名書きも僕がやります。侘びしくなんてないです。全然…。

 会場のアルバイトの皆さんには事前登録・勤務表・振込などの書類を人数分(16〜18名/年)用意します。シンポジウムは4日間に及び、外国人・日本人の参加者一人一人でスケジュールが違い、ホテルの予約や移動の計算も複雑を極めます。一年目はもうこれらの事務処理にやられて完全にグロッキーでした(笑)。自分も発表するんです。なんとかこなせたのは同じプロジェクトの先生方や福大の優秀な事務の方々のサポートのおかげ。

図3 シンポジウムの様子
 慣れない書類と電卓に無駄に時間かかる。自分の哲学の研究が進まない。苛立つ。一分も研究できないまま日が暮れる。なんか悲しくなる。でも、それはちゃんと報われたんです。

 ベルクソンの『物質と記憶』という書物には、〈心〉と〈時間〉の謎を解き明かすためのアイデアがモリモリに詰め込まれています。その意味は、伝統的な「フランス哲学」の範囲に留まるものではなくて、近年進展の著しい「意識の科学」や分析系の「心の哲学」に深く関係しています。この本を長らく研究対象にしてきた僕にはそのことは分かっていましたが、これら全ての分野を一人で網羅することは到底不可能です。だから今回PBJ(日本ベルクソン・プロジェクト)の代表を引き継ぎ、『物質と記憶』について集中的な協働研究の采配役を任されたことは、ほんとうに光栄であると同時にまさにうってつけのタイミングだったのです。

 今回、ベルクソンの学会なのに発表者のほとんどがベルクソン専門家でありません。しかも、海外についても国内についても非哲学の分野の方々は、書籍を通じて知っているだけでほぼ面識ゼロでした。中心的な論者となった英国の分析哲学者バリー・デイントンに、最初にメールを書いた日のことをよく覚えています。見知らぬ日本人から突然ヘタクソな英語でメールが来て、あなたの説はベルクソン的だからベルクソン読め、そして発表しろと言われ、あれこれ注文されたにもかかわらず、快く引き受けて、来日し、初めてのベルクソン論を仕上げてくれました(その後彼は毎年参加してくれています)。ゲーム人工知能の三宅陽一郎さんとは渋谷の貸し会議室で初めて待ち合わせして、神経科学者の太田宏之氏といきなり6時間ぶっ通しで夜まで議論したっけ。別な心理学の国際学会で知り合った社会心理学者スティーヴン・D・ブラウン。初対面なのにイギリスやイスタンブールからお土産を持ってきてくれたデイヴィッド・クレプスとジャン=リュック・プチ、お別れの夜に白くなってた僕にあついハグをしてくれたアメリカのマイケル・R・ケリー。京都や大阪に移動した日は、あてもなく寺を訪ね、みんなでたこ焼きを一緒に食べたのもよい思い出です。

図4 議論の続き
 やっぱり学問ってすばらしいなって思いませんか。謝礼もありません、それどころか、こちらの予算が限られた中、多くの人が旅費を自前で出してくれてるんです。本には執筆料も印税もありません。ただ働きですよ?なぜ、そんなことが起こるのでしょう?

 それはみな、ある日、見も知らぬ研究者からメールボックスに届いた、純粋に学問的な問題提起から始まったのです。それに共感して予定を調整し参加を決め、もうテーマは暖まっているから会場で出会ったその瞬間にはガチの議論です。初対面とか関係なし。お互い発表を持ち寄って、徹底的にやり合って、飲み語らい、数ヶ月後には討議を踏まえた論文に仕上げ、それを翻訳し、本になるまで、そしてその後も、ただその純粋に学問的な問題だけが、のべ37人の発表者と18名の特定質問者を導きつづけたのです。人間ってすごい。

 そんな知的な歓びと自由を目の当たりにできるのなら、書類くらい書きますってば。書かせて下さいお願いします(涙目)。



2017年12月14日木曜日

忘年会に、いくべきではない理由(林 誓雄先生)

 前回から少し間が空きましたが、平成29年度第11回目の「教員記事」をお届けします。哲学の林 誓雄先生です。今回は、暴走列車や池で溺れる子どもの話を使った思考実験を手がかりに、わかりやすくかつ楽しく、貧しい国や地域の人たちに対する豊かな日本に住む私たちの果たすべき義務の問題を考察されています。



忘年会に、いくべきではない理由
   
     林 誓雄(哲学


ボブはもうすぐ定年を迎える。彼は、ブガッティという非常に珍しく高価なクラシックカーに自分の貯金の大半をつぎ込んだが、その車に保険をかけることは済んでいない。ブガッティは彼の自慢の種である。この車を運転し、きれいにすることによって得られる快楽に加えて、ボブはこの車の市場価値が上がっているため、この車をいつでも売って引退後も快適に暮らせることを知っている。ある日ボブがドライブに出かけたとき、彼はブガッティをもう使用されていない鉄道の側線の終端近くに停めて、線路に沿って散歩した。そうしていると、誰も乗っていない暴走列車が線路の向こうからやってくるのに気付いた。線路のずっと先をみると、線路の上で夢中になって遊んでいるように見える子どもの小さな姿が目に入った。その子どもは暴走列車に気づいておらず、大きな危険が迫っている。ボブには列車を止めることはできず、まだ子どもはずっと遠くにいるため、大声で叫んで危険を知らせることもできない。しかし、彼は切り替えスイッチを入れることにより、列車を彼のブガッティが停車している側線に導き入れることができる。そうすれば誰も死ぬことはない———しかし、側線の終端にある防御壁は破損しているため、列車は彼のブガッティを破壊するであろう。(シンガー [2014] pp. 15-16)


 倫理学では、暴走列車(トロッコ/ トロリー)を使った思考実験が数多く提案されている。基本的なものとしては、暴走列車を放っておくと5人が死ぬことになる一方、自分の目の前にある切り替え線のレバーを切れば、5人は救われるが別の1人が死ぬことになる。さぁ、あなたはレバーを切る? それとも切らない? というやつだ。

 さて、今回は車か子どもか、である。ちなみに、ここで登場する高級車ブガッティは、先日とある雑誌を読んでいたときに見かける機会があり、目が飛び出かけたのだが、なんと3億円もするらしい。もちろん、3億円払えばそれで済む話でもなく、維持費も年間数千万はかかるとのこと。いったい、どこにそんなお金持ちがいるのやら。(そういえば、高級車アルファ・ロメオに乗ってらっしゃる先生が、いたような気がするが…)

 と、そんな話をしているのではない。車か子どもか、である。悩ましい問題である。細かな条件について詰めておくと、この暴走列車の事例では、子どもの死は必然的なものではない。もしかするとその子どもは、列車が迫っていることにギリギリで気がついて、線路から跳びのき、死なないかもしれない。だが、子どもが列車に気づいても、腰を抜かして動けなくなり、死んでしまうかもしれない。つまり、子どもの死は、不確実なものである。

 他方で、車の方はというと、ボブがその車の方に向かうよう線路のスイッチを入れると、その高級車は(必然的に)パァになる。しかし、だからといって、ボブは、自分の住む場所を失ったり、借金を背負うことになったりするわけではない。ブガッティの支払いは済んでおり、また、自宅も(それが大豪邸かどうかは不明だが)確保されている。こうした条件下で、それではボブは、あるいはわれわれがボブの立場だったとしたら、どちらを選ぶべきか。車なのか、子どもなのか。

 この事例を「紹介」しているピーター・シンガーによると(この事例自体は、ピーター・アンガーという別の哲学者による創作である)、一般的に考えて多くの人は、仮にボブが切り替えスイッチを入れずに、車に被害が及ばないようにしたのだとしたら、彼の行為は誤っていたと答えるという。なぜなら、「ボブは切り替えスイッチを入れて自分が一番大切にしている高価な所有物を破壊し、それによって経済的に安定した老後を暮らすという希望を犠牲にすることを選ばなかったからだ」(シンガー [2014] pp. 16-17)。なるほど、われわれの直観からすると、ボブは、自分の経済的安定よりも、未来ある子どもの命を、たとえ暴走列車によるその子の死が必然的なものではないとしても、優先して守るべきであるような気がする。そしてそれは、「自分たちは困っている人を助けるべきであり、少なくとも彼らが自分の目に入るところにいて、また彼らを助けられるのは自分だけである場合には、助けるべきである」という、われわれが普通に持っている信念によって、支えられるものであるように思える。そのため、ブガッティを失うことは、無辜の命が失われることと同じくらい重大な問題だ、などと主張するのは困難であるし、そのように主張する人間は、どこか性根が腐っている、あるいは不道徳だと非難されても仕方がないように見える。

 しかしながら、「実はこれは、世界の貧困問題について考えてもらうための架空の事例なんですよ」とタネ明かしをされて、そして「ブガッティよりも無辜な子どもの命の方が大事であることを認めるのなら、あなたが余分に持っているお金すべてを、アフリカで今にも死にそうになっているかわいそうな子どもたちのために寄付しましょう」と言われると、われわれの多くは途端に、先ほどの考えを撤回する方へと傾くように思われる。あるいは、次のように言われても、われわれの多くは、すぐに説得されようとはしないように見えるのである。


「もしあなたに、何か悪いことが生じるのを防ぐことができ、しかもほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることなくそうすることができるのであれば、そのように行為しないことは間違っていると、あなたは認めたのでしょう。そうであるなら、世界には何百万もの、死が迫っている状況下にある子どもたちがいます。遠すぎてわからないというなら、ほら、そのひどい状況を、こうやってネット中継して、あなたにお見せすることができます。世界がこのようであるにもかかわらず、それを無視して、自分の快適な老後のために貯蓄をすることは、道徳的に間違っています。だから、余分なお金を老後の貯蓄なんかにはまわさずに、これ以上寄付すると、子どもの命とほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることになるぐらい貧しくなるまで、あなたは寄付をするべきです。」


 このように言われると、われわれは途端に及び腰になり、この寄付を求める議論には、どこか不可解なところがあるのではないかと思うようになる。(この議論が不可解だと思わない人は、どうぞ老後の蓄えをすべて、慈善団体に寄付していただければよい。)

 この議論が不可解であり、間違っていると思われる理由のひとつとして、ボブとわれわれとの間の「違い」を挙げることができるかもしれない。ボブは、3億円もの車を購入し、それを維持できるほどの大金持ちだ。他方で、われわれ一般の人間は、例えば日本の世帯平均所得で考えるなら、年間約546万円の稼ぎしかない(厚生労働省「各種世帯の所得等の状況」)。このように、われわれ一般人とボブとの間には、その収入や貯蓄の額に大きな差がある。だから、ボブにはブガッティを犠牲にする理由がある一方で、われわれ一般人は、日々慎ましい生活をするほどの余力しかないのだから、われわれの方には、寄付をするべき義務は発生しないように思われる。

 だが、シンガーはそういう言い訳(?)を許してくれない。われわれ一般人にも、やはり寄付を求めてくる。それは、どの程度の寄付なのかというと、「これ以上寄付をすれば、自分が寄付することで防ぎうる悪い事柄とほぼ同じくらい重要な何かが犠牲になってしまうところまで」(シンガー [2014] pp. 187)である。無辜な子どもの命が失われることと同じくらい重要な何かが犠牲になるまでは、ひたすら寄付しなければならないというのだ。こりゃあ、いくらなんでも大変だ。

 いまいち、寄付を進んでする気持ちになれない私は、次のように考えてみるのである。すなわち、毎年きちんと税金を支払っている私は、すでにODA(政府開発援助)の形で、世界の貧困をなくすために寄付していることになっているのではないのか。そうであるなら、一日本国民として、世界に対して果たすべき義務を、しかも公平に負担されるべき義務を、しっかり果たしているのではないか。そして、私には、自分が負うべき公平な負担以上のことをする理由は、もはやないのではないか、と。

 しかし、この「公平な負担」論に対しては、次の事例を考えてみよ、とシンガーは切り返してくる。


あなたが浅い池のそばを歩いていると、10人の子どもが池に落ちて助けを必要としているのを目にする。辺りを見回すと、親も保護者もいないが、自分と同様、たった今池のそばに来て溺れている子どもたちを見つけ、あなたと同じくらい子どもを助けられる立場にいる大人が9名いることに気付く。そこであなたは急いで水の中に入って1人の子どもをすくいあげ、池から離れた安全なところに連れて行った。あなたは他の大人たちも同様のことをして子どもたちは全員無事だろうと思って池の方を見ると、驚いたことに4名の大人がそれぞれ子どもを1人ずつ助けたのに対し、残りの5名はそのまま立ち去ってしまったことに気付く。池にはまだ5人の子どもがいて、明らかに溺れそうになっている。(シンガー [2014] pp. 192-193)


 この事例における「あなた」は、放っておくと5人の子供が溺れて死ぬと知りながら、「公平な負担」を理由にして、1人の子どもを救っただけで、救助をやめてもよいものだろうか。シンガーの答えは「ノー」である。彼は、他の人々が自分の公平な負担を果たしていないという事実は、「あなた」が子どもを容易に助けられるにもかかわらずその子どもを見殺しにするのを正当化する十分な理由にはならないと断じる。そしてさらにシンガーは、自分の公平な負担以上のことをするのを原則的に断る(私のような)人間は、公平さをフェティシズム(盲目的な崇拝)の対象にしているのであり、一種の性格のおぞましさを露呈しているのだ、とまで言う(シンガー [2014] pp. 194-195)。

 このように、仮にシンガーの言うことが妥当であるならば、私の性根は腐っている、ということになる。すなわち、これまでやっていたような、忘年会と称して、ちょっとお高めのお店にて、同僚たちとともに、この一年、研究や教育、そして学内の仕事を本当によく頑張ったことを労い合うだとか、今年もお世話になった自分の師匠に御礼の気持ちとして、ちょっといいお酒を贈って差し上げるだとか、ゼミ生たちとクリスマスパーリィーを開催して、おおかた奢ってやるだとか、そういったことに自分のお金を費やし、他方で寄付をまったくしないでいると、それは溺れて死にそうな子どもを見殺しにすることと同じだと言われ、自分の性根が腐っていることを示すことになるのである。私は、自分の性根を叩き直すべきなのだ。私は、心を入れ替えて、これまでそういった享楽に費やしてきたお金をすべて、世界の貧しい地域の子どもの命を救うために、寄付するべきなのだ。自分の気前のよさを、周りの比較的恵まれた人々にだけ振り向けるのではなく、それを恵まれない世界の人々へと向けるべきなのだ。貧しい人々が直面している多くの問題に、恒久的な解決を与えることができるまで、われわれは、寄付をし続けなければならないのだ……。

 うーむ、シンガーの言うことはわかるのだけれど、やはりどこか、何か、しっくりこない。これはいったい、何がどうおかしいのだろう。シンガーの議論のどこかに、何かおかしい点があるのか、それともやはり、私に徳が欠けているだけなのか。性根が腐りきっている私とは違い、私の出身研究室の某先輩(今回取り上げているシンガーの本の訳者の1人)は、毎月、国境なき医師団に寄付をしていらっしゃる。大変素晴らしい先輩である。腐った自分の性根を叩き直すために、今度、その先輩の爪の垢を譲ってもらい、煎じて飲めば、寄付できるようになるのかなぁ…。

 あれ? そういえば、ブガッティの事例でも、池で溺れている事例でも、どうして子どもたちの親や保護者が、どこにも見当たらないのだろう。本来、子どもたちの命について、その責任を負うべき親や保護者たちは、いったいぜんたい、どこで何をやっているのだろう。貧困な国や地域の大人たちは、後先考えずに、子どもを好き勝手に作るだけ作っておいて、貧しさのためにその子どもたちを不幸にし、そして、その子どもたちを死へと追いやっているとも言える。仮にも、この問題の「恒久的な解決」を目指すのならば、まずはその構造から、根本的に変えていくべきである。「かわいそうな子ども」を、これ以上、生み出すべきではない。もちろん、貧しさということが、子どもをかわいそうな状態にするのであれば、その貧しさを改善するために、われわれ裕福な国の人たちが寄付をするのも一つの方策かもしれない(そしてその方策を強く推し進めるのがシンガーである)。しかし、それとは別の手段もありえる。それは、そうした国や地域の大人たちが、これ以上子どもを持たないようにするのである。子どもたちが生み出され、存在してしまうからこそ、生み出され、存在してしまった子どもたちが苦しんだり死んでしまったりするのである。逆に、子どもたちが生み出されず、存在しなかったのだとしたら、そうした苦しみや悲しみは、この世に発生しないことになる。そして、こちらの手段の方が、シンガーのやり方よりも、「恒久的な解決」に資するものだと思われる。

 最近、デイヴィッド・ベネターという哲学者が主張する「反出生主義(anti-natalism)」という考え方に、注目が集まっている。われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪である。それゆえ、害悪をこれ以上、この世の中に増やさないために、われわれには子どもを作らない義務がある、というものである。この主張を支える議論は、極めて難解なものではあるけれども(詳しく知りたい方は、ベネター『生まれてこない方が良かった』を読んでみてほしい)、仮にこの議論・主張が妥当だとするならば、貧困のために子どもの命が危機にさらされるような国や地域の大人に対して、避妊や(初期段階の)中絶を奨励することが、道徳的に正しいことになる。そうだ、それがよい。今後、子どもたちが生み出されない・存在しないのであるなら、彼らに関する悲しみや苦しみがこの世に生み出されることはなくなる。子どもたちが、死ぬこともなくなる。そしてそのことに、われわれは思い悩むこともなくなるのである。

 線路の上で遊ぶ子どもにも、池で溺れている子どもたちにも、これからは出会うことがなくなる。したがって、命の危険にさらされている子どもを救う義務を、われわれが負うこともなくなるのであり、われわれは寄付をしなくてよくなるのであり、自分で稼いだお金を、これまで通り、自分の楽しみに、あるいは自分の仲間との楽しみに、惜しみなく使うことができるようになるのである……。

 さて、このように、性根が腐りきっている私は、なんともうまい結論を引き出したもんだと思われるかもしれない。すなわち、貧しい国や地域の人たちが子どもをもたないようにしてもらうことで、自分が寄付をする義務を消し去り、自分のお金を自分の使いたいように使える状態にしたのだ、と。確かに、私の寄付をする義務は、ベネターの「反出生主義」を使うことで、消し去ることができるのかもしれない。しかし、「反出生主義」を支持することは、次のような反直観的な結論にもつながってしまうことを覚悟しなければならない。

 「反出生主義」は当然のことながら、人間であれば誰にも当てはまるものである。すなわち、「われわれは皆、子どもをもたない(これ以上もうけない)義務をもつ」と言われるのである。なぜなら、われわれ人間が「存在する」ことは、「存在しない」ことに比べて、常に害悪であり、人間を存在してしまうようにすること(=子どもをもうけること)は、害悪をこの世に生み出すことに寄与することになるからである。(ただし、「反出生主義」においても、「死」は悪いものなので、すでに存在してしまっている人間については、なるべく苦しみや悲しみを受けることなく生きるよう努力すべきとされる。)かくして、「反出生主義」にしたがうと、最終的にわれわれ人類は、絶滅することになる。そしてそれこそが、道徳的に目指すべき状態なのだと言われるのである……。

 さて、どうしたものか。やはり私は、忘年会なんぞには行かずに、あるいは今後は贅沢することを慎んで、余ったお金を貧しい国や地域の人たちのために寄付しながら生きていくべきなのか(おそらく、それが正解)。それとも、忘年会に行って(なんなら新年会にも行って)、自分のお金を好きなように使いながら、それでいて、人類の絶滅を導くように、生きていくのか。どちらが、正しい道なのか…(多分前者)。寄付をするのか、絶滅か……(だから、前者だって)。考えるのも疲れたので、とりあえず、酒でも飲みに行こうかしら。


参考資料

  • 厚生労働省「平成28年国民生活基礎調査の概況 II 各種世帯の所得等の状況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa16/dl/03.pdf)(2017年12月14日閲覧)
  • デイヴィッド・ベネター [2017] 『生まれてこない方が良かった:存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宣義 訳、すずさわ書店
  • ピーター・シンガー [2014] 『あなたが救える命』児玉聡・石川涼子 訳、勁草書房