2017年1月19日木曜日

卒業論文発表会のお知らせ

 下記の日程で卒業論文発表会を執り行います。
 今年はすべてポスター発表の形式で行います。4年生のみなさんはもちろん、これから卒論に取り組むことになる1年生から3年生も是非足を運んで、先輩たちの力作をその目で見、質問してみてください。

□日時 2017年1月28日(土)13:00〜16:00
□場所 文系センター棟15階 第5会議室、第6会議室

 詳しいタイトルなどは下のプラグラムをご覧下さい。

発表者は12:30までに来場し、ポスターの貼付を行ってください。




にわにはにわにわとりが(平田 暢先生)

「教員記事」をお届けします。2016年度12回目は社会学の平田 暢先生です。



にわにはにわにわとりが
    
     平田 暢(社会学

 まだ冬真っ盛りだと思っていると、もう木々は芽ぐんでいたりするようです。今年は酉年なので、鶏について少し考えてみました。

 ことわざは何かなかったかと考えたのですが、最初に思い出したのが、「鶏口となるも牛後となるなかれ」でした。これは大きな存在(=牛)の末尾にいるよりも、小さな存在(=鶏)であってもそのトップにいなさい、という意味で、「寄らば大樹の陰」と対義になっています。現代風に意訳すると「オンリーワンを目指せ」といった感じでしょうか。年初にふさわしいかもしれません。その他には「牛刀を以て鶏を割く:小さな物事にあたるのに、過度に大きな手段は必要ない」や「鶏鳴狗盗:卑しくつまらないことしかできない人。また、そのような人でも役に立つことがある」、調べてみて初めて知ったのですが「鶏群の一鶴:多くのつまらないものの中に、1人だけすぐれた者や美しい者がまじっていること」などがあるようです。

 4つだけですが、このように並べてみると、鶏は小さくて平凡なものの喩えになっているようで、裏を返すとそれだけ身近でありふれた存在だったことがわかります。犬もそのような存在かもしれません。ただし、もともとは「犬」と「狗」の区別があったらしく、「犬」は飼い馴らされていない野犬(「祓」という漢字の旁は犬に刀を当てる形だそうです)、「狗」は飼い馴らされた犬で、「狡兎死して走狗烹らる」「羊頭狗肉」という言葉にもあるように、食べられてもいたようです。 

 ところが、狗はともかくとして、今の私たちが生きている鶏を見る機会はほとんどありません。スーパーに行くと、卵は山積みに置かれ、ささみや胸肉、もも肉など解体されて肉になったパックも有り余るほどあるにもかかわらず、です。他方で鳥インフルエンザが発生したとき、ニュースで「○万羽が処分」という言葉とともに、穴に埋められる梱包された鶏の死骸の映像を見たりします。いずれにしろパックされた向こう側にしか鶏はいない訳で、鶏の全身像を見るのは12年に1度、年賀状の中だけになっているのかもしれません。

 と、ここまで書いて「ヒヨちゃん」を思い出しました。ご存じの方も多いと思うのですが、『動物のお医者さん』というH大学獣医学部を舞台にした大変有名な漫画があります。作者は『おたんこナース』などでもよく知られている佐々木倫子さん。ヒヨちゃんは主人公の家で飼われている白色レグホン種の雄鶏で、登場する1コマめから「ランボーなんだ」と評され、主人公の家にはシベリアン・ハスキー(この漫画がきっかけでブームになりました)のチョビや町内ボスの三毛猫ミケがいるにもかかわらず最強の存在です。「走って追いかけてきてけとばしたり咬みついたりする」のですが、咬みつきの威力たるや「ペンチでつかんでひねる」ほどで、流血に至ります。

 このヒヨちゃんがインフルエンザに罹る話もあります(第65話)。当時は防疫システムが違っていたらしく、処分されることもなく栄養剤の注射で無事全快するのですが、主人公たちの予想よりも早く「だまって全快していた」(この時点で既に顔に怒りのマークが浮かんでいる)ため、また「恩を知らない全快のパワーがバクハツ」したため、治療のため籠から出そうとした獣医(主人公の指導教授でもあります)に襲いかかり大乱闘となります。結果は引き分け。この「だまって全快していた」の1コマが可笑しく、未だにたまに読み返して、というか読み返さなくても思い出して笑っています。ヒヨちゃんは物語に欠かせない個性際だつキャラクターで、最終回まで元気にぶれずに乱暴者です。個人的にはチョビの次に好きかも。

 というわけで、そんなヒヨちゃんを知っていればありえないはずですが、もうずいぶん前に、幼稚園児だったか小学生だったかが鶏を4本脚の生き物として描く、ということが話題になりました。どこかの大学入試でも鶏を描けという問題が出たはずです。おそらく現在の大学生でも4本脚で描いてしまうケースが一定程度あるのではないかと思います。これが、たとえばラジカセ用のカセットテープが何のためのものかわからない、フロッピーディスクを見たことがないということであれば、技術革新によってこの20年ほどで使われなくなったものなので知らなくても理解できます。

しかしながら、日本人の鶏卵と鶏肉の消費量はずいぶんと多く、平成26年度の農林水産省食料需給表によると、鶏卵の消費量は年間1人当たり16.7㎏、殻を除いたMサイズを約50gとすると年間約330個。世界第3位の消費量だそうです。鶏卵の消費量はここ25年ほど頭打ちですが、鶏肉の年間消費量は今も増加傾向にあり、0.8㎏だった1960年と比較するとこの50年で約15倍、12.2㎏に達しています。鶏肉に関して言えば、日本には古来鶏はいたものの(鶏形埴輪というものがあるそうです)、食用となる種は基本的に明治以降外国から入ってきたようで、鶏卵ほど食べてきた歴史は長くはないようです。

 これだけ消費しているのに鶏がどういう姿をしているかわからない、ということがあるとすると、やはり少し異常な感じがします。自給自足に近い社会で生活していれば、自分が何を食べているかよくわかっていたと思うのですが、産業化が進み、生活がそのような地域単位から家族単位へ、さらに個人単位へと移り変わるにつれ、生産と消費は分離し、食べるものが外食産業やコンビニで調理され、加工されたものばかりになると元の姿は想像もつかなくなります。

 『ソイレント・グリーン』というチャールトン・ヘストン主演の昔のSF映画があります。人口爆発により資源が枯渇し、人々はソイレント社という企業がプランクトンから作っていると謳うクラッカーのような合成食品「ソイレント・グリーン」の配給を受けて生きているのですが、実はそのソイレント・グリーンはプランクトンではなく人間の死体から生産されていた、というお話です。

 調理され、加工された食品しか知らなければ、私もソイレント・グリーンを何の疑いも持たず食べるに違いありません。

 牛や豚は無理だとしても、もし「庭には二羽鶏がいる」生活ができれば、食を支える仕組みや社会といった角度から、自分の食生活を少し考える機会となるのかもしれません。ヒヨちゃんクラスの鶏であれば我が家の犬よりは番鶏(?)としても役に立ちそうですし(その前に私と犬の安全が心配)。時も告げてくれますし。初夢ではないですが、初妄想としてちょっと庭に鶏がいる光景を思い浮かべたりしています。


参考文献
佐々木倫子,『動物のお医者さん』(1~6),白泉社.
農林水産省ホームページ


□平田先生のブログ記事

2017年1月17日火曜日

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内


 以前にも紹介しましたが、文化学科の先生たちは分野に応じていくつかの「研究チーム」なるものを運営しています。お互いの研究などを持ち寄って、発表したり討議したりすることは、研究活動を進めていく上でとてもよい刺激になっています。
 下記の研究チーム発表会を、学生の皆さんに公開いたします。普段の授業での「教員としての顔」とは違う、「研究者としての顔」を見られるチャンス。また今回は、特別企画としてお二人の先生からお話を伺います。宮野真生子先生からはご専門の九鬼周造と和辻哲郎について、岩隈 敏先生からはカント哲学について。今年度で退職される岩隈先生のお話が聞ける最後のチャンスでもあります。

 文化学科の皆さんは参加自由です。参加したからと言って発言の強制などもありませんので、安心して(?)聴講に来てみるといいですよ。

「善と悪に関する思想的研究」研究チーム代表 平井靖史



領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」
平成28年度 第4回研究会


・日時:1月31日(火)、14:00-17:10
・場所:A605 教室

プログラム
14:00-15:30:宮野真生子先生「間柄と倫理―九鬼周造と和辻哲郎」(質疑含む)
15:40-17:10:岩隈 敏先生「カントの経験の理論」(質疑含む)

2017年1月11日水曜日

岩隈 敏先生、髙下保幸先生の最後の講義が行われました

 明けましておめでとうございます。2017年最初の記事をお届けします。



岩隈 敏先生、髙下保幸先生の最後の講義が行われました


 昨日、1月10日に文化学科の教員として教鞭を執られてきた哲学岩隈敏先生心理学髙下保幸先生が文化学科専門科目の最後の講義を行われました。

岩隈 敏 先生         髙下保幸先生
 福岡大学へのご着任は岩隈先生が昭和50年、髙下先生が昭和52年で、40年以上の長きにわたって文化学科のみならず、人文学部、福岡大学のために尽力されました。今年3月で70歳の定年を迎えられ、キャンパスを去られます。

 岩隈先生はカント研究者として、真理の問題と善悪の問題、美の問題に数多くの論考を重ねてこられました。髙下先生はユーモアを対象に、その感知の問題からユーモアが健康やストレスにもたらす影響に至るまで幅広く研究をなさってきました。

 両先生とも膨大な研究業績をお持ちで、また両先生の謦咳に接し各方面で活躍する卒業生も数多くおられますが、いわゆる「最終講義」はなさらず、通常の授業の一環として岩隈先生は「知識の理論」、髙下先生は「集団心理学」をそれぞれ講じられました。学科の学生にとっても、両先生の講義を受ける最後の機会となり、皆、両先生が講義されるお姿を心に焼きつけていたようです。

 講義終了後は、在学生から「長い間ありがとうございました」の一言とともに花束が贈られ、教室からは温かな拍手が起こりました。


2016年12月25日日曜日

なぜ私は締めに、ラーメンを食べてしまったのか — 酒と理性と情念と —(林誓雄先生)

今年最後の「教員記事」をお届けします。2016年度11回目は哲学の林誓雄先生です。



なぜ私は締めに、ラーメンを食べてしまったのか
— 酒と理性と情念と —
    
     林 誓雄(哲学

 忘年会・新年会シーズンたけなわである。学生も教員も皆、思い思いのメンバーと、お酒を呑みに、街へ繰り出す日々が続いていることだろう。とはいえ、私の場合、別にそのようなシーズンであるなしに関係なく、毎週のように呑んだくれているわけだが…。そして、ついつい呑み過ぎてしまい、記憶を失うこともしばしば…である……。

 そんな、記憶(および、その他の大切なもの)を失って家に帰り、その翌朝、重たい身体を何とか動かし、体内からアルコールを抜くべく、シャワーを浴びているときなどに、ふと考えてみたことがある(別名、「反省」とも言う)。それはすなわち、記憶や意識を失いつつも、酔いにまかせて、なぜ私は締めに、それが不健康であるとよくよく理解しているにもかかわらず、こってりラーメンを食べてしま(い、挙げ句の果ては、終電すら逃してしまい、結局はタクシーで帰る羽目にな)ったのか、ということである。以下では、そのとき(反省時)の私のささやかな考察を、まとめることにしたいと思う。すなわち本稿は、人間というものが、どのようなメカニズムに基づいて行為するのかについての考察、一言で、人間の「行為の動機づけ」についての一考察である。

 人間の「行為の動機づけ」の仕組みについては、古くから、哲学者たちの間でさかんに議論が交わされてきた。私の専門とする、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームもまた、その中のうちの一人であり、現代のメタ倫理学と呼ばれる領域のうちの「行為の動機づけ」の議論において、多大なる影響を及ぼしている。

 ヒュームによると、伝統的に人間とは、理性と情念(=感情)という二つの原理によって行為するものと考えられてきた。そして、「理性と情念の闘争」ということが、さまざまな場面で言われてきたわけだが、その対立においては一般に、次のように主張され、また命じられてきたのだという。すなわち「何か、行為をするにあたっては、理性にしたがい、理性によって自分の行為を規制して生きることこそが、倫理的な・健康的な・立派な生き方なのであり、われわれは皆、そのようにするべきである」と。逆に、「情念にしたがってはならず、むしろ情念に抗うようにせよ」と、そのように(幼い頃より口すっぱく)言われてきたのである、と(T 2.3.3.1)。

 確かに、特段、哲学的な議論においてだけでなく、普段の生活の中においても、「感情的に行動するな」、あるいは逆に、「理性的に行為しなさい」と言われるような場面を、われわれは頻繁に目にするし、そういう場面に出くわすことも多いだろう。そこでは、(神にその起源を有するがゆえに)理性とは永遠、不変なものであり、善を司るものであることが前提とされている。その一方で、情念とは盲目で、移り気で、そしてしばしば、われわれに嘘をつかせるなど、悪を司るものであることが、議論の前提とされている(ibid.)。

 しかし、こうした伝統的な人間観に、ヒュームは疑問を投げかける。すなわち、果たして本当に、理性にしたがって、われわれが行為することなど、できるのか、と。このようにヒュームが疑問を抱くのは、伝統的な哲学においては、理性とは(1)数学的・直観的な計算能力か、あるいは(2)因果関係や目的手段関係について把握する推論能力かの、どちらかだとされているからである。
 
 ヒュームに言わせると、われわれ人間が数学的な計算能力だけで、行為に至ることはない。5+7=12であることがわかったからといって、われわれは行為へと突き動かされることはない。そしてまた、推論能力のみによっても、われわれが行為に至ることはない。例えば、目の前に置いてある冷たいビールを呑もうと、私が手を動かす場面を考えよう。確かに、目の前のビールが原因となって、それを呑むことで、私は心地よい気分になるから、ビールを手に取るという行為が生まれはする。しかしながら、ビールが「原因」となり、それを呑むことで心地よい気分になるという「結果」が私にもたらされることを、私が把握しているとしても、それだけで私は、行為へと突き動かされることはない。私が行為するためにはもうひとつ、「心地よさを取り込みたい」という欲求(=情念)が、理性による推論とは別に、はたらいていなければならないのである。

 以上の議論より、われわれ人間は、理性の能力のみでは、行為へと突き動かされることはない。この「理性と情念との関係」についてヒュームは、次のような刺激的な言葉を残している。


理性は情念の奴隷であり、奴隷のみであるべきである。つまり理性が、情念に付き従う以外の役目を申し立てることはできないのである。(T 2.3.3.4)


 さて、以上のようなヒュームの人間観を、具体例を交えてまとめ直すと、次の通りとなる。すなわち、人間を、車に例えて説明するならば、車のエンジン部分が「情念(=感情)」であり、車のハンドルが「理性」に相当する。ハンドルだけを、グリグリ動かしても、前にも後ろにも進むことはない。理性だけをはたらかせても、われわれ人間は動かないのである。逆に、エンジンだけがはたらくとしても、ハンドルによる方向づけがうまくいかないと、前や後ろには進むことはできたとしても、しかし、崖から転落してしまったり、壁にぶつかってしまったりすることになる。つまり、エンジンであるところの情念が、人間を駆動する本質的部分ではあるとしても、しかしハンドルとしての理性による方向づけがあってはじめて、人間は合理的に行為することが可能となるのである。以上がヒュームの人間観である。そして、こうした人間の捉え方は、現代では「ヒューム主義」と呼ばれている。

 ところで、もしかするとここで、車が動く上で必要となる部分がひとつ、上の説明には欠けていることに、気がついた人がいるかもしれない。それはすなわち、車のブレーキである。伝統的な哲学においては、車のブレーキも、理性が担当すると考えられてきた。だからこそ、「感情・情念を理性で抑える」というような表現が、一般に受け入れられているのかもしれない。

 しかしながら、ヒュームはこのブレーキの役割を、理性には認めない。理性はあくまでも、人間の行為の方向づけをするだけである。それでは、ヒュームの人間観において、ブレーキの役割を担うものは何か。それは、他ならぬ「情念(=感情)」である。しかもこの、ブレーキの役割を担う情念のことを、ヒュームは「穏やかな情念」と呼ぶ。


特定の穏やかな欲求や傾向は、実際には存在している情念なのだけれど、こころに、ほとんど情動を生みださず、それゆえ、直接的な感じや感覚によって知られるというよりもむしろ、その結果によって知られることが多いのは確かである。こうした欲求には二種類ある。すなわち、善意や敵意、生命愛、そして子供への思いやりなど、人間本性に元々植え付けられている特別な本能と、そのようなものとしてだけ考えられる場合の、善に向かう一般的な欲と、悪に対する一般的な嫌悪である。こうした情念のどれもが穏やかであり、魂に波風をまったく引き起こさない場合、そのような情念は実に安易に、理性が決定したものと取り違えられる、つまり、真偽を判断するのと同じ能力から生じると考えられるのである。(T 2.3.3.8)


 伝統的な哲学、および一般的な考え方においては、人間には理性と情念(=感情)が備わっており、情念が暴れようとすることを、理性が抑えるものであると、そのように考えられてきた。しかしながら、ヒュームに言わせるとそれは間違いであり、一般に「理性」対「情念」の対立と思われているものは、実は「穏やかな情念」対「激しい情念」の対立なのである。それにもかかわらず、伝統的な哲学においては、穏やかな情念のはたらきは、その穏やかさゆえに、こころに波風を立てることなくはたらく「理性」のものだと、そのように勘違いされてきた、これがヒュームの診断である。理性はあくまでも、情念の奴隷としてしかはたらくことができない。理性と情念とは、まったく異なるフェーズではたらくものなのであるから、その二つが「対立」したり、「闘争」したりするなど、できるはずもないのである。

 さて、以上のヒュームの診断が正しいとしよう。そして私はつい最近まで、その診断が、概ね正しいものだと考えてきた。ヒュームにしたがうならば、不道徳・不健康・愚かな行為へとわれわれを突き動かしがちな「激しい情念」を、善へと向かい・悪を嫌悪する「穏やかな情念」によって規制することで、われわれは善く・健康的に・立派に生きることができる、ということになるだろう。

 ここで、読者によっては、「激しい」と「穏やか」という言葉使いから、「穏やかな情念」など、「激しい情念」に勝てるわけがないと、思う人がいるかもしれない。しかしながら、激しさや穏やかさは、行為への動機づけにおいては、あまり関係がないとヒュームは述べる。行為の動機づけにおいて重要となるのは、情念の「強さ」である。われわれは、穏やかであるけれども、しかし「強い」情念をもっていれば、「激しい情念」によって不道徳・ 不健康・愚かな行為を、しでかしてしまうことはないのである(Cf. T 2.3.4.1-2)。

 さて、本題はここからである。そして、問題となるのは、他ならぬ「酒」である。冒頭で示した、私の愚かな行為について、もう一度思い出していただこう。私は、酒を大量に摂取したために、(明瞭な)意識や記憶を失う状態へと至った。しかしながら、そういった状態であっても、私はどういうわけだか、呑みの締めにと、ラーメン屋に入っていき、とんこつラーメンを食したのである。このとき、仮に酒が入っていなければ、私は自分の健康と、目の前の快楽とを天秤にかけ、きっと妥当な判断を下して、立派に行為していたことであろう。すなわち、「ヒューム主義」の枠組みにしたがって説明するならば、健康で長生きしたいとする「穏やかな情念」が、目先の快楽を味わいたいとする「激しい情念」に打ち克ち、そしてそれを抑制し、締めにラーメンなど食べずに、大人しく家に帰ってきたはずである。そうすると、次のように分析することができるように思われる。すなわち、〔A〕酒のせいで大人しく家に帰らずにラーメン屋の暖簾をくぐったとするならば、それは、酒が原因となって、「穏やかな情念」のはたらきが弱まり、あるいは封じ込められ、「激しい情念」が野放しになってしまったのだ、と。いや、可能性としてはもう一つ考えられる。すなわち、〔B〕酒が原因となって、「激しい情念」のみが、そのはたらく力を増大させ、その結果、私は「穏やかな情念」の言うことなど聞かず、唯々諾々と「激しい情念」の導きにしたがってしまったのだ、と。

 以上の分析は、しかしながら、納得できないところがある。すなわちそれは、〔A〕の場合、なぜ「穏やかな情念」は、そしてそれのみが、酒に弱いのか、ということである。同様に、〔B〕の場合であれば、なぜ「激しい情念」は、そしてそれのみが、酒によってパワーアップするのか、ということである。

 同じ「情念」とカテゴライズされるものであるならば、「穏やかな情念」だけでなく「激しい情念」の両方が、酒によって、そのはたらきを封じ込められる、あるいは両方が、酒によってパワーアップしてしかるべきであるように思えるのである。しかしながら、現実にはそうなってはいない。すなわち、酒はどういうわけだか、どちらか一方の情念のみに、影響を及ぼしている。これは、「一貫性」という点で問題があるように思われる。そして、この一貫性という問題について、適切な説明が与えられない場合、もしかするとヒュームの人間観それ自体が、そもそもまちがっていることを示すことになるように思われるのだ。

 ヒュームの人間観(理性は情念の奴隷)が正しいものではないとすると、即座に対案として、伝統的な哲学における人間観が思い浮かぶ。すなわち、人間の理性と情念とは、そのどちらにも動機づけの力が備わっており、情念の自分勝手な蠢きを、理性がただしく抑えることによって、人間は善く・健康的に・立派に生きることが可能になる、という捉え方が、やはり妥当なものであったのである、と。

 だが、伝統的な人間観にも、依然として難点はつきまとう。それは、ヒューム主義的な人間観に当てはまったのと同じものであるが、なぜ「理性」は、そしてそれのみが、酒に弱いのか、ということである。あるいは、なぜ「情念」は、そしてそれのみが、酒によってパワーアップするのか、ということである。伝統的な人間観の場合、理性と情念とは、別個の存在とされているわけだから、ヒューム主義が直面した「一貫性」という問題については、それを回避することができるだろう。しかしながら、それでもやはり、なぜ酒が、一方の原理にのみ影響を及ぼすのかという点については、説明が与えられなければならない。とりわけ、哲学や倫理学を研究している者からすると、どうして「理性」が、そしてそれのみが、酒に弱いのかということについては、納得のいく説明が欲しいところである。なぜなら、理性とは神にその起源があるとされているにもかかわらず、それが酒に弱いということは、神の全能性と矛盾するように思われるからである。いや、もしかすると、全能とか言っておきながら、実はカミサマって、酒にだけは弱いのかも、しれない。

 かくして、人間についての捉え方は、ヒューム主義と伝統的な哲学、どちらが正しいものであるのだろうか。理性は情念の奴隷であるのか、それとも、理性によって情念は、抑え込むことができるのか。あるいは、これら両方ともに、人間の捉え方として間違っているのか。ともかくも、以上の考察から、一つだけ言えることがある。すなわち、それは、「お酒は、ほどほどに」ということである(自戒)。


参考文献
Hume, D. [1739-40] A Treatise of Human Nature, eds., by Norton, D. F. & Norton, M. J. 1st Ed, Oxford U. P., 2000. (引用・参照の際は、略号としてTを用い、巻、部、節、および段落の番号をアラビア数字で順に付す。訳は筆者によるものである。)


□林先生のブログ記事
「徳」と「幸福」

2016年12月21日水曜日

文化学科ゼミ紹介(LC14台 入船 佑 さん)

 今年度10回目の学生記事をお届けします。文化学科3年生の入船佑さんが、平田暢先生のゼミ(文化学演習Ⅲ・Ⅴ Ⅳ・Ⅵ)について報告してくれました。


平田ゼミ紹介
LC14台 入船 佑

 今年の平田先生のゼミでは前期・後期を通じて、自由について今一度考えるということを大きなテーマとしています。前期は、帝政を脱し様々な権利が憲法で保障されてより自由な国家となったヴァイマール共和国が、何故ナチスドイツとなってユダヤ人の大量虐殺に代表される非人道的な行為を多数行ったのか、ということを『ヒトラーとナチ・ドイツ』[石田勇治(著)、講談社現代新書]をテキストとして、歴史上の事実を確認しつつ議論しました。

 また後期では、なぜ人々がナチスやヒトラーを支持したのか、ヴァイマール共和国の人々が特例と言い切れるのか、異なった場所や時代を生きる私たちそれぞれが自由についてもう少し向き合い考える必要があるのではないか、ということを『自由からの逃走』[エーリッヒ・フロム(著)、日高六郎(訳)、東京創元社]をテキストとして考察しています。自由によってもたらされる孤独や不安に対し人間がどのような対応をとるのか、という問題を中心に自由に対するフロムの様々な指摘を踏まえて議論しています。

 ゼミは以下のように進められます。まず毎回二人一組になって担当範囲のレジュメを作成し報告し、報告者とその他の2名が検討課題を提示します。提示された計3つの検討課題を比較検討し、最終的には1つに絞って議論を深めます。

 たとえば、『自由からの逃走』第1章と第2章を扱った回では、「第1章でフロムは近代人が自由と同時に得た孤独が精神的な破滅をもたらすと述べているが、孤独によって引き起こされるどのような感情がそういった破滅をもたらすのか、また、近代人は自由を放棄してでも孤独を回避しようとするのか」という検討課題について議論しました。

 議論の結果、「孤独によって生まれた、所属する集団の他の構成員に対しての劣等感や疎外感、今まで意思決定の根拠としていたものの不在、他者の考えが分からなくなったことへの不安、そして孤独になる以前は他者と協力して解決していた問題に1人で立ち向かわなければならなくなったときの無力感といった感情が、人間に精神的な破滅をもたらしたり自由を放棄させたりするのではないか」という意見にまとまりました。



 二人一組で作業するため、テキストをしっかりと読み込んで連絡を密に取り合い意見の交換をきちんと行わなければ良いレジュメを作成することは困難です。また、その回のテーマに沿った検討課題を作成することもなかなか難しい作業です。なので、報告が中途半端であったり、良い課題が設定出来なかったりしたことで先生からご指導をいただく回もあります。しかし、いただいた指導は次回の資料作成に活かすことが出来ますし、またその二つが上手くいった回の議論は上で示したように意義のあるものとなります。

 自由という私たちの身近にあるものについて一度立ち止まって考えてみることは、これから生きていく上で大切なことです。また、あまり面識のない同級生や上級生と一緒に作業をすること、そして課題を見つけることは、成功・失敗を問わず社会人になった時に活きる経験だと考えます。




2016年12月8日木曜日

ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(髙下保幸先生) 

「教員記事」をお届けします。2016年10回目は心理学の髙下保幸先生です。



ユ-モア・ウォッチング in フクダイ    
     髙下保幸(心理学

 気持ちが落ち込み後ろ向きに考え込み、眉をひそめて周りを見れば、暗くて嫌なことばかりが目につきます。反対に背筋を伸ばし前向き思考で眉を開いて見れば、そこには結構おもしろく楽しい世界が待っているものです。

 ということで、8年前の文化学演習では、学生への課題として、大学生活のなかで見つけた「ちょっとおかしなこと」を書き出すように求めました。

 学生が提出した事例のなかで、ちかさん(愛=ちか という読み方に初めて接しました。なるほど愛するとは近づくことでもあります)が見つけた事例は、読んでその場面を想像するだけで思わずにやりと楽しくなるものでした。日頃からキャンパス内の隅々に、また学生たちの生態に目をこらしている眼力、ひいてはユーモア力の持ち主と見受けられました。この学生こそ文化学科の看板とする「多角的視野」をもつ存在ではないかとも思われました。

 前置きはともかく、何題も出してくれた「ちょっとおかしなこと」のなかから3題再掲しますので、ユーモアの楽しさを味わってみてください。


ちか版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(1)

 大学の教室の机の上には、学生の残した数々の名画が描かれている。たとえば、つい最近見つけたのが、頭はかわいいドラえもんであるが、体はパンツをのみ着用している筋肉もりもりの男性の絵である。

 その絵は、ありふれた落書き絵と思われるが、よくよく考えると気になった。ドラえもんにはなくてはならないポケットの存在が…。

 この絵の作者がそこまで考えて描いたわけではなかろうが、それを見る側としてはどうしても考えてしまう。

  身を隠すたった一枚の布がポケットなのか?



ちか版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(2)

 落書きといえば、前期のある授業の中で私も机上にメッセージを残してみた。                        

 「私は誰でしょう?」

 次の週、なんとそこには返事が…。

 「机?」

 その通りですね。



ちか版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(3)

 大学の昼休み。教室では、数多くのカップルが昼食をとっている。食べ終わった後の少しの時間も、二人は会話を楽しんでいる。

 ある日のこと、あるカップルの彼氏が突然並んで座っていた席を離れ、そしてすぐに戻ってきた。

 彼女が「どうしたの?」と聞く。

 彼の答えた一言で、このカップルはまた一歩互いの距離を近づけることになった。

 「個室が満室だった」



 以上のちかさんのユーモア・ウォッチングに負けじと、四十年に及ぶ福大生活のなかで教員の側から見つけた「ちょっとおかしなこと」を披露いたします。

  出す前から、勝負は決まっているようにも思われますが。もちろん、私の負けと。


髙下版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(1)

 ゼミの時間。コの字の席列の向こう正面に座っている男子学生の一人が、シャープ・ペンシルの芯を横の方に飛ばしてしまった。

 それを見ていた私は、このときとばかりに間を置かずに言った。

 「とんだことだったね!」

 三十名ほどのゼミ生。そのうち数名しか笑わず…。

 そこには、むなしい時間と空間があった。



髙下版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(2)

 教師をやっていて、授業中に退席する学生の多さには、いちいち腹を立てていてもきりがない。

 それで、途中退室する学生には、その都度、皮肉っぽいメッセージをぶつけて見送ることにした。

 「途中退席のひとには、授業料の払い戻しは致し兼ねます」

 「途中退席は緊急の時以外は遠慮願います。ただし、親を死なすのは一度きりです」

 こんな下手な文言は「ユーモア」を専門にしている立場としては決して言わない、代わりにことわざのもじり、「地口」を仕掛けてみる。

 「立つ鳥、後は飛び落ちる」

 「後悔、今立つ」

 いずれも何の効果もなし。

 皮肉が通じる相手ではなかった…。



髙下版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(3)

 大きな講義室、心理学の講義をいつものごとく淡々と進めている。

 ふと受講席の方を見ると、ドアが開いていた講義室の入口から、大学の構内を根城にしている薄汚れた犬(学生は「福大犬」と呼んでいた)が入ってくる。

 さらに受講席の間の通路をヨチヨチと教壇に向かって寄ってきて、教室の真ん中あたりで、ビクターのブランドの犬のように座り込んだ。聞く耳を側立てていかにも聴いているようにもみえる。私、教師の声、 ”voice of master” を…。

 その犬の場違いな存在に気づいた学生は、ちょっとした笑いにどよめいた。

 5分ほど授業を進めたあと、熱心な受講犬はどうしているかとその場所に目を向けると、はやその姿はなし。

 「犬も喰わない」講義であった…。


 以上の、長い福大での生活を振り返っての、おかしくも、ちょっとわびしい想い出をもって、髙下最後の教員エッセイを閉じます。


□髙下先生のブログ記事
かわいい」考

□髙下先生の授業紹介
文化学科ゼミ紹介