2015年8月1日土曜日

スマホと空と攻殻機動隊(小笠原史樹先生)

「教員記事」をお届けします。本年度第六回は中世哲学の小笠原史樹先生です。



スマホと空と攻殻機動隊

ゼミ生を相手に、或るとき次のように口走った。「スマホの画面を見ている時間と、空を見上げている時間とを比べて、もしスマホの画面を見ている時間の方が長い、と気づいたら、その瞬間にスマホを折れ!」。

さらに調子に乗って「人間の頭が上についているのは、スマホの画面を見下ろすためではなく、空を見上げるためだ!」と叫んだのだったか否か。しかしゼミ生から「ガラケーなら『折れ!』でいいでしょうけど、スマホの場合は『割れ!』でしょうね」と指摘されて言葉につまった。パキリと二つに折るからこそ気持ちがよいのに、「割れ!」では爽快感に欠ける……。

それにしてもスマホ、である。キャンパス内を歩いているといつも、スマホを操作している学生諸氏の、その圧倒的な数の多さに驚かされる。誰もが情報ネットワークに接続して常につながり続ける、という空想はSFの領域を超えて、少なくとも大学内では半ば現実化してしまった。後はサイボーグ技術さえ発達すれば、遂に「攻殻機動隊」の世界が……?

……いや、どこか違う気もする。映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」(押井守監督、1995年)に代表されるように、「攻殻機動隊」シリーズではしばしば「私」という在り方が、克服すべき制約として捉えられる。確かに、私は私でしかない。しかし、膨大な情報で構成されたネットと一体化することで、この制約が克服される。私は私であることから解放されて消滅し、より集合的な何か(?)へと変わっていく。「ネットは広大だわ……」、というわけである。

他方、学生諸氏にとってスマホは往々にして「私」を克服するツールとしてではなく、むしろ「私」を肥大化させるツールとして機能しているように思われる。スマホで量産されるのは「私」に関する言葉や画像であり、その意味で、スマホの画面を見ることは鏡を見ることに似ている。おびただしい自己言及の応酬の中、「私は他人からどのように見られているのか」という自意識ばかりが空転し、「私」だけがどこまでも膨らんでいく……とまで断じてしまうことは躊躇われるが。

ところで上記の映画には、キリスト教の聖典である新約聖書の、『コリントの信徒への手紙一』からの引用が出てくる。

「われ童子(わらべ)の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり」(13章11節、文語訳)

同じ箇所が、新共同訳では「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」、田川建三訳では「幼児であった時には我々は幼児のように話し、幼児のように思い、幼児のように考えていた。だが私はすでに大人となったのだから、幼児のようなやり方を止めたのである」となっている。田川訳では、ギリシア語原典で前半が一人称複数、後半が一人称単数で書かれていることが示されていて興味深いが、この点には深入りしないでおこう。

映画「GHOST IN THE SHELL」では、童子が「私」に制約されている状態に、人(=大人)が「私」から解放された状態に比されている。私であること自体から解放されるべきか否かはともかく、大人になるためには過剰な自意識から解放されることが必要である、とは言えるだろう。映画の場合、「私」からの解放は広大なネットと一体化することによって成された。過剰な自意識からの解放もおそらく、「私」を超える広大なものに触れることで成される。

スマホを割れ、とは言わない。スマホの画面を見つめ続ける合間に、たとえ暑さに苛立ったが故であるとしても、少しは空を見上げてみてほしい。ネットと同様かそれ以上に、空もまた十分に広大である。


参考文献
 士郎正宗『攻殻機動隊』、講談社、1991年
 田川建三訳著『新約聖書 訳と註 第三巻:パウロ書簡 その一』、作品社、2007年

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