2015年9月17日木曜日

I like Music or I love Music ?(小林信行先生)

「教員記事」をお届けします。本年度第九回は古代哲学の小林信行先生です。



  I like Music or I love Music ?         

 新学期に新しいゼミのメンバーが顔合わせをする時、互いに簡単な自己紹介をすることがあると思う。あたりさわりのない紹介の一つに、私の趣味は音楽を聴くことです、というものがある。たしかにキャンパスでも街角でもイヤホンをつけたまま歩いている人は多い。もちろん音楽だけではなく、語学の勉強だとか、ラジオ放送の場合もあるだろうが、やはり音楽が一般的だろう。だからこそ音楽好きを自称することは、自分を主張するときよりも人々に紛れて自分を隠すことに向いている。

photo by y. hirai
では自己主張的な音楽好きとはどのような人たちだろうか。かれらはいったいどんな聴き方をしているのだろうか。自分でも移動の際に何回かイヤホンをつけて音楽を聴いてみたことがある。しかし、どうも聴いた気がしない。何よりも、危なくて仕方ない。何かにぶつかりそうになったり、地下鉄を乗り過ごしそうになったり。イヤホンにしろヘッドホンにしろ、周囲から隔絶された状態が作り出されているのでつい音楽に集中してしまい、今ここが何処なのか、そもそも自分が何をしていたのかさえ忘れてしまう。そうかといって、周囲に注意しながら聴いていると、実際には音楽なんて断片的な雑音に近くなってしまい、仕舞いには音が聞こえてくること自体が煩わしくなる。だから自分は音楽好きなのだと自覚している。

 今となってはずいぶん昔の話だが、ソニーが携帯プレーヤーを世界的にヒットさせたとき、猿がイヤホンをつけて音楽に陶然と聴き入っているようなコマーシャルがTVで流れていた(YouTubeに動画あり)。あっ、自分もこの猿といっしょだ、といささか複雑な気持ちになったが、音楽好きに人間も動物もないと主張しているようなCMに感心させられた。また、ある学生が家では毎日スピーカーに頭を突っ込んでいますという話をしたときにも、またCD店で買い物をして “No Music, No Life.” とプリントされたシールをおまけにもらったときにも、それなりに感心したことがある。つまり何を言いたいかといえば、音楽を聴いていることがその時は生のすべてであり、また後から考えれば生の一部となるような時間をもつことのできる人間は音楽好きと言えるのではないか、ということなのだ(ただし猿に人生はないだろうが)。

 他方でBGMを好む人たちもいる。なんとなく音楽を流している場合もあるだろうし、何か仕事をしながら流している場合もあるだろう。それは環境の一部となった音楽(聴覚)であり、そこでの気温や湿度(触覚)や光(視覚)などと一体になってかれらに心地よい状態を作り出しているように思われる。おそらくその環境が何となくぼんやりさせてくれたりあるいは仕事に専念させてくれるから音楽も要素の一つとして加えられているのであろうが、もしそうだとすれば音楽は生そのものではなく、調味料の一種のようになっているのではないか。もちろん、調味料でも重要なものは重要だという言い方も可能であるし、調味料ひとつで料理がすっかり変わってしまうこともあるだろう。しかしBGMの場合、その環境下でなされる仕事の方にその人の生があるのではないだろうか。哲学的には、環境的なものは生の副原因であると見なされうる。


 音楽についてこんな面倒なことを考えるよりも、もっと気楽に音を楽しめばいいのではないか、という声も聞こえてきそうだ。しかし音楽にかぎらず、誰にでもつきまとう好みや愛好はどこかでその人をかたち作っているわけあり、そのよう好みや愛好に自分がどのようにかかわっているかを振り返るだけでも、思いがけない自己発見につながるように思われる。就活の時期が来てあわてて自分さがしに奔走しないためにも、日頃から自分が何を好きなのか、何故好きなのかを気にしてみてはどうだろうか。その答えもそれとのかかわり方も、自分自身で見つける以外にない点が重要なのだけれど。


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