2015年3月20日金曜日

平成26年度 福岡大学人文学部 文化学科卒業式が挙行されました。

 昨日(平成27年3月19日付),平成26年度福岡大学人文学部文化学科の卒業式(卒業証書授与式)が挙行されました。卒業式並びに謝恩会の模様を早速アップいたします。
 ご卒業なされた皆様、本当におめでとうございます!!!



学位授与式の模様など
卒業生&教員揃っての集合写真

卒業生が企画した謝恩会の様子

2015年3月16日月曜日

西日本新聞掲載:卒業論文「マスクの文化論」(LC11台 篤永理沙さん)

本年度提出された卒業論文が、西日本新聞の取材を受けて3月6日の同紙に掲載されましたのでお知らせいたします。

執筆されたのは本年度卒業の篤永理沙さんで、テーマは「マスクの文化論」。
現代のわたしたちにとってマスクは、「咳」や「風邪」「花粉症」のためにだけ使われるものではなくなってきているようです。

「だてマスク」がもつ心理的・社会的効果について、独自の観点から分析した彼女の卒業論文が、西日本新聞記者の塚崎謙太郎さんの目にとまり、取材の運びとなりました。

以下に、掲載記事を転載いたしますので、ぜひご覧下さい(西日本新聞社許諾済み)。クリックで拡大いたします。


2015年3月14日土曜日

「ここにいることの不思議」 (宮野真生子准教授)

「教員記事」をお届けします。第二一回は哲学の宮野真生子先生です。



「ここにいることの不思議」


 福岡にやって来て6度目の春を迎えようとしています。

 2010年の春、初めて関西を離れ、福岡に越してきたときのことを私は今もはっきりと思い出すことができます。薬院駅の前に立って、「変な高架だなぁ」と西鉄の駅を眺めたこと、六つ角の渡り方がわからず混乱したこと、なによりも耳に入ってくる言葉の響きが違うことに少し淋しくなったこと。最初の1年目は、ただただしんどかったというのが、率直な感想です。けれど、今の私は、グチりたいときに一人で行ける飲み屋もいくつかでき(これが私にとって最重要課題)、福岡という街を「ホーム」と思えるようになってきたと感じています。それでも時々、文系センター棟を眺めたときに、街を歩きながら「天神」や「大橋」といった地名が載った道路標識を見たときに、あるいは慣れた口ぶりで「酢もつ一つください」と注文したときに、「なんでここにいるんだろう」と強く感じることがあります。

 「なんでここにいるんだろう」という想いは、私にとって子どもの頃から慣れ親しんだ感覚の一つです。といっても、引っ越しを繰り返してきたとか、不幸な生い立ちだったとかそういうわけでは全くなくて、ごくごく普通の家庭に生まれ、祖父母両親のいる持ち家で暮らし、京都に移ってからも、親しい人たちに囲まれて暮らしてきました。この感覚はそういう事実的な事柄とは関係なしに、哲学ふうに言うならば人間の「根源的な感情」としてある。そのことを、私は九鬼周造という哲学者を通じて学びました。

 九鬼周造は、1888(明治21)年、有能な官僚であった九鬼隆一と祇園で舞妓の見習いをしていた波津子の四男として東京に生まれました。父隆一は慶應義塾で学んだ後、文部省に入り官吏となった人です。隆一は元々幕府側の藩士でしたので、外務省や内務省、軍関係といった薩長閥が占めている役所ではなく、文部省という比較的地味な官庁に入ることで、出世を狙ったと言われています。はたして、その通りに隆一は出世します。最も有名な彼の業績は、近代日本における「美術」行政の基礎を作ったという点です。岡倉天心を見いだし、岡倉とフェノロサの三人で日本の美術の基礎を築きました。しかし、この岡倉との出会いは九鬼家に大きな禍根を残すことになりました。隆一の妻であり、周造の母であった波津子が、岡倉と不義の恋に落ちたのです。その頃、波津子はちょうど周造を妊娠していた頃でした。この二人の恋は岡倉家・九鬼家を巻き込んだ騒動となり、母は父と別居し、周造は母とともに根岸の家で暮らすことになります。結局、岡倉と母波津子の恋はうまくいくことはなく、ついに母は心を病み、病院に閉じ込められることになったのですが、このことを九鬼周造はたった一言、「複雑な感情を残した」と語るのみです。しかし一方で、九鬼は岡倉を恨んでいたというよりも、父が岡倉と出会ったことで生じた一連の事柄をどこか客観的に見ていたふしがあります。九鬼は「岡倉覚三氏の思い出」というエッセイで、子どもの頃、岡倉と出かけた際に茶屋の女将に「お父様によく似ておいでですね」と言われたということを記しています。どこかで九鬼は岡倉と波津子の子どもだった自分、ということを夢想していたのではないでしょうか。父隆一と母波津子の出会いは、祇園のお茶屋で、まだ舞妓にもなっていなかった手伝いの身分にすぎない波津子を父隆一がたまたま見初めたと言われています。ほんの偶然の出会いにすぎません。さらに出会ったとしても、隆一にそこまでの力がなければ、波津子と結婚することは難しかったでしょう。また、結婚したとしても、体の弱かった波津子が無事に周造を産めたこと自体、とても奇跡的なことです。一方、波津子と天心の出会いがもう少し早ければ、隆一が波津子からの別居の申し出に応じていれば、本当に天心が周造の父だったこともあり得たかもしれません。こんなふうに考えることは、ただの可能性をもてあそぶ夢想なのでしょうか。目の前の現実は起こってしまったこと、そのたった一つなのだから、起こらなかった可能性を仮定することなど馬鹿げている。たしかにそれは真っ当な考えかもしれません。けれど九鬼は、『偶然性の問題』という本のなかで、目の前の現実だけを見る生き方を硬直した、つまらない生き方だと切り捨てています。むしろ、可能性と偶然性のなかで今の現実を見ること、そうすることで、今の現実がイキイキと感じられると彼は考えるのです。
 なぜ、可能性と偶然性のなかで今の現実を見ることが大切なのでしょうか。一見すると、今の現実を「他もあり得た」と考えることは、目の前の事柄から逃避しているような、それを軽んじているように感じられます。しかし、それは違います。逆説的に聞こえるかもしれませんが、可能性と偶然性を背景に、現実を見るとき、私たちは「今ここでこうしていること」の不思議を感じることができ、その不思議さ、奇跡性に気付くことで、目の前の現実の大切さに気付くからです。たしかに天心と波津子の恋の背後には、二人が出会わなかった可能性や、すれちがった可能性など、たくさんのそうはならなかっただろう可能性があります。しかし、現実には出会ってしまった。しかも、それは奇跡的な確率です。そもそも、隆一と波津子が出会わなければ、波津子は東京に来ることはなかったわけで、さらに隆一と天心も互いに文部省に入ることがなければ、出会うことはなかった。無数の偶然的な出会い、可能性の上に成り立っているのが二人の恋です。なにかが少し違えば、別のかたちもあり得た。それは、いま私たちが立つ現実にも言うことができます。もし、あのとき福大に願書を出していなければ、あの日風邪をひいていなければ、あるいは、入試の前の日に、あのページを復習していなければ・・・。私たちの現実の周りには、無数の「もし」があります。そんな無数の「もし」をくぐり抜けて、私たちの今がある。その奇跡的な有り様を九鬼は『偶然性の問題』のなかで明らかにしたのでした。

「なんでここにいるんだろう」という想い、それは、世界が別のかたちでもあり得るという感覚です。それは決して、ネガティブなものではありません。私が薬院六つ角に立って「なんでここにいるんだろう」と呟くとき、そのあとには「人生ってわからないなぁ、だから面白いな」と思うのですから。


2015年3月4日水曜日

平成27年度文化学科ガイダンスゼミナールのお知らせ ――文化学科で考える「食」――

★2015年度新一年生向け★
「文化学科ガイダンスゼミナール」を下記の通り開催します。このゼミナールは、皆さん方がこれからの4年間「文化学科で何を、いかに学ぶか」を具体的に知ってもらうための催しです。「文化学科で考える『食』」を共通テーマとして、午前中は3人の先生方が異なる角度から話をします。そして、午後は先生方から出された課題に、皆さん方がグループに分かれて取り組み、その成果を発表し、参加者全員で議論をします。
 なお、終了後には新入生歓迎会が行われます。


日時:2015411日(土)午前9時より(850分開場)
会場:中央図書館多目的ホール

プログラム
午前の部
09:00         開会、趣旨説明
09:10         講義① 宮岡真央子先生「『食べ物』を考える―文化人類学の視点から」(講義30分、質疑応答5分)
09:45         講義② 岩隈敏先生「肉食の是非についてー動物の『道徳的資格』を問いなおす動物解放論」(講義30分、質疑応答5分)
10:20         休憩15
10:35         講義③ 岸根敏幸先生「日本神話における『食』」(講義30分、質疑応答5分)
11:10         午後のグループ別ゼミナールに向けての説明

午後の部
12:30         グループ別ゼミナール=課題をめぐる調査、議論、発表準備(120分)
14:30         グループ別発表15分(発表10分、質疑応答5分)×8グループ(4グループ目終了時に休憩15分)
16:45         全体討議
17:30         閉会
18:00         LCフォーラム主催 新入生歓迎会(文系センター棟16階スカイラウンジ)


*当日は、必ず筆記用具(ノート、ペン等)と学生証を持ってきてください。

2015年3月2日月曜日

ハンセン病回復者の上野正子さんをゲスト・スピーカーにお招きして (本多康生 専任講師)

「教員記事」をお届けします。第二〇回は社会学の本多康生 先生です。



ハンセン病回復者の上野正子さんをゲスト・スピーカーにお招きして

本多 康生

私は、社会学の立場からハンセン病問題の研究に携わり、約15年になります。この記事では、共通教育科目の社会学Aの授業で、ハンセン病回復者の上野正子さんをゲスト・スピーカーにお招きした時のことを書きたいと思います。上野さんは1927年に沖縄県の八重山諸島で生まれ、1940年に13歳で国立ハンセン病療養所星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)に入所し、以後70年余りを療養所で生活されています。1998年に国を相手にハンセン病違憲国家賠償訴訟を提訴し(第一次原告)、園内の強い反対の中、原告活動を続けられました。全国に支援が広がった結果、20015月に熊本地裁で全面勝訴し、国が控訴を断念しました。裁判を機に生じた園内の軋轢も概ね解消した現在は、敬愛園入所者自治会副会長を務め、語り部活動等で多忙な日々を送っておられます。私は11年前に敬愛園での調査で知り合って以来、交流続けています。
読者の皆さんはハンセン病についての知識があまりないでしょうから、まずハンセン病の医学的・社会的側面について解説します。

1.ハンセン病とは
ハンセン病はMycobacterium leprae(らい菌)による慢性の細菌性感染症で、発症力は弱く、治療法として多剤併用療法(MDT, Multidrug therapy)も普及しているため、社会衛生水準の高い国では公衆衛生上の問題とはなりません。現在、日本人の発症者ほとんどいません。なお、世界的には、発展途上国を中心に年間約21.5万人の新患が発生しています。早期治療によって、知覚麻痺や機能運動障害(顔面神経麻痺、視覚障害、上下肢の変形・欠損)などの後遺症・二次障害の発生を予防できます。

2 .隔離政策とは?
日本では、19091996年まで、「らい予防法」(1953年改正施行、1996年廃止)などにより、ハンセン病を患った人を療養所に隔離する政策が採られてきました。ハンセン病と診断された人は、家族や地域社会から引き離されてハンセン病療養所で生活することを余儀なくされました。この政策は、1940年代から在宅での外来治療を推進してきたWHOなどの世界的潮流と大きく異なっていました。国立療養所の入所者は、1960年代後半まで、所内労働や不妊手術(断種・堕胎)を強制され、基本的人権を奪われてきました。2001年に国家賠償訴訟で原告が全面勝訴し、国と和解したことにより、被害を回復するための経済的・法的・社会的措置が採られるようになりました。2009年には「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が施行され、入所者や退所者を隔てなく地域社会に迎え入れることが、私たち一人ひとりに強く要請されています。
現在も全国14箇所の国立・私立療養所で入所者約1800人が生活し、退所者(社会復帰者)と療養所に入所したことのない非入所者を合わせて1950人が、地域で生活しています。これらの人々は完全に治癒していますが、家族・社会関係の疎外などの大きな問題を依然として抱えています。

3 .上野正子さんの講話から感じたこと
授業では、上野正子さんに約250名の学生達に対して「偏見差別のない社会を願いつつ」と題したハンセン病問題の講話をしていただきました。
上野さんは、13歳で療養所に入所した際の父親との哀しい別れや、夫の清さんとの結婚生活、国賠訴訟に参加し勝訴したこと、さらに高等女学校時代の同窓生達がひめゆり学徒隊に入隊し沖縄戦で犠牲になっていたと最近知ったことなどを話されました。そして、人は誰しも使命を帯びており、勝訴を機に入所以来使用していた偽名から本名に戻り「人間回復」をした自分は、語り部として活動を続けることで様々な出会いをし、充実した生を送っていると、力強く証言されました。大多数の学生はこれまでハンセン病問題と接する機会がほとんどなかったわけですが、自らの苦しみや喜びを包み隠さず語られた上野さんの生き様に強く心を打たれた様子でした。
講話の最後に、上野さんは八重山の民謡を熱唱されました。その姿を見て、私は20043月に敬愛園に長期逗留していた際、園内の交流会館で小学校の子ども達に上野さんが話をされたことを思い出しました。その時は、入所するまでの道中でお父さんに初めて食べさせてもらったカレーの味や、療養所内の反対を押し切って訴訟に立ち上がった裁判の苦労の逸話が中心でした。御礼に、子ども達が立ち上がって皆で「ふるさと」を歌うと、上野さんは頭を垂れ、感動した面持ちでじっと聴いておられた姿が印象に残っていますあの子ども達は、ちょうど学生達と同じ年齢になっているはずです。れから10の歳月を経て、お話の構成も変わり、上野さんは歌を贈る側になっておられました。上野さんはただ齢を重ねるのではなく、人としての自信を回復し、様々な出会いを積み重ねながら、「人間回復」のその先を歩んで来られたのだと感じ、胸が熱くなりました。

学生達には、課題として講話の感想文を提出してもらいました。社会学を履修するまでハンセン病問題をよく知らなかった彼らが、上野さんの姿に共感し、見知らぬ他者の問題ではなく、自身の問題として真摯に向き合い、何ができるかを論じていました。学生達にとって、人権や社会的差別についての思索を深める一助になったことろうと思います。

※本稿は、『「特定非営利活動法人ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会会報』第23号に掲載した原稿大幅に加筆修正したものです。



講話をする上野正子さん