2016年2月15日月曜日

研究生活を振り返って(藤田隆先生)

 「教員記事」をお届けします。2015年度第17回は、来月に定年を迎えられる地理学の藤田隆先生にご寄稿いただきました。長年にわたり文化学科の教育にご献身くださり、ありがとうございました。本当にお疲れ様でございました。



研究生活を振り返って


 藤田 隆(地理学)

はじめに 
 私はこの3月末日をもって、39年間勤務してきた福岡大学での定年を迎えます。このブログの執筆担当に当って、テーマを考えましたが、なかなか思いつきません。そこで、昨年10月に総合研究所から依頼されて書いた『リサーチ』への退職者予定者の研究雑感の原稿を、一部加筆・修正して掲載させていただくことにしました。はじめに、そのことをお断りいたしておきます。

簡単な経歴
 私は、昭和20年に東広島市に生まれ、小学校4年より大学院まで広島市内で過ごした。その後、3年間の広島県立江田島高校での教員生活を経て、昭和52 年に福岡大学に赴任した。

 研究生活に入る原点は、大学の卒業論文の作成にあると思う。昭和40年に広島大学文学部史学科地理学専攻に入学、さらに同大学院修士・博士課程に進み、人文地理学を専攻した。研究室は文学部史学科に置かれていたが、地理学教室は、「自然地理学」と「人文地理学」の2専攻があった。ともに少人数で、普段両専攻は講義など、常に一緒であったと思う。そんななか、当時の恩師、先輩や後輩で自然地理学を専攻された方には、南極観測隊に参加され、地形・地質などの調査・研究に取り組まれた人も何人かおられた。

研究テーマとの出会い
 学部では卒業論文が必修だったので、この卒業論文作成が研究へのきっかけとなったと思う。当時は特別に興味・関心のあるテーマはなく、漠然といろいろ考えていたが、ある時、実習などを担当指導されていた助手の先生から、「住宅団地」の話を聞く機会があった。先生は、地形学の立場から市街地周辺の山麓の傾斜地に急速に進行していく開発に関心を持っておられ、特に土砂災害の危険性について話されたと記憶している。当時、山陽本線をよく利用していた私は、市街地周辺の斜面が急速に住宅地化していく景観を何気なく眺めながら、それを実感していた。とりあえず卒論のテーマを決めなければならないので、あまり深く考えることなく、先生の話をヒントとし、別の観点から「住宅団地」を取り上げることとした。その時には想像もしなかったが、結果的にはこれが今日に続く研究生活につながることとなった。

都市の発展と住宅地の拡大
 都市には、経済・社会・政治・文化などに関する多くの機能が集積・競合するが、その結果は景観としては土地利用として表れることとなる。都市がある程度大きくなると、同種の機能が特定地域に集まるという地域分化がみられる傾向がある。こうした都市機能のうち、面積的に最も大きいのは居住機能、すなわち住宅地域であろう。この住宅地域の拡大には二つの方向が指摘される。一つは、都心から離れて市街地周辺や郊外への水平的な外延的拡大であり、今一つは、都心周辺を中心にみられる高層化による垂直的拡大である。それらを代表するのが、前者はいわゆる「住宅団地」であり、後者が「中高層住宅・マンション」であろう。

広島都市圏における「住宅団地」開発
 私は、学部卒業論文と修士論文では、慣れ親しみ土地勘もあり、調査に取り組みやすいという理由から広島市都市圏をフィールドとすることとした。

 広島の街は、昭和20年8月6日に投下された原爆により壊滅的な被害を受けたのち、精力的に戦災復興が図られ、市街地整備も精力的に進められた。そんななか、軍都的な性格が強かった広島市街にはかなりまとまった軍用地が存在していた。これらを含め、市街地内部ではかなり公営の中層住宅地への転換が行われていった。また一方で、市街地の面積が狭い広島市の住宅地の拡大の方向は、必然的に周辺の山麓や丘陵地の傾斜地に向かうことになる。

 一般に、中国地方には真砂(まさ)土として知られる風化花崗岩が広く発達しているが、広島市周辺の傾斜地も例外ではない。このような地質は大型の土木機械での開発・造成が容易なため、山麓の傾斜地では急速に開発地域が広まっていった。逆に、風化が進み、侵食にもろいという面が懸念され、同時に開発の規制のための法整備も進められていった。しかし、記憶に新しい平成14年8月下旬に広島市安佐南区で発生した例など幾度か大規模土砂災害を経験してきている。

 調査・研究では、この内部と周辺部の両方向においてまとまった規模を持つ「住宅団地」を取り上げ、それが「どこで」、「いつ」、「だれによって」、「なぜ」開発され、そこては「どのような人たちが」、「どこから来て」、「どのような生活をしているか」などを中心に、役所での資料収集、現地での調査・確認などを行うことになる。また、室内では5万分の1の地形図にメッシュをかけ、その中の等高線の本数を計測し、平均傾斜角度を求め、傾斜地と開発地の関係を調べるという細かい作業も経験した。

 広島都市圏を対象とした調査研究は、修士論文とその整理で一区切りとした。

福岡都市圏の「住宅団地」
 次にフィールドとして選んだのは、広島市との比較の観点から、同じ広域中心都市の福岡市である。研究内容の基本は広島の場合と同じであるが、初めての地で、土地勘がないため、役所での資料集め、現地での確認調査などにおいて、広島時代の恩師、先輩、知人など多くの人に、厚かましくお世話なったことを思い出し感謝している。現地に同行してもらったり、原付バイクを提供してもらったり、自宅に泊めてもらったり、いろいろあった。特に原付バイクで都市圏を走り回った時、のちに気づいたが、その時福大のそばの道路を通っていたことなどが懐かしく思い出される。

 福岡市と広島市を比較すると、平地の市街地の広がりがかなり違うことを感じる。福岡市の市街地の水平的広がりが大きいため、広島市より周辺の傾斜地への開発は時期的に少し遅いように思う。

 私は大学院を出た後、3年間高校教員を経験したが、そのあと、思いもよらず新しい職場として声をかけてもらったのが福岡大学だった。福岡をフィールドに選んだ時には、全く想定していなかったが、結果としてフィールドでもある福岡に来ることができたことには幸運で、大いに満足している。何かの縁を感じるところである。
 
都市の高層化とマンションの出現
 やがて時代は、東京、大阪など大都市で進行していったいわゆる「マンション」の建設が、地方の主要都市にも見られるようになり、福岡市での第一号は1968年の建設といわれている。以前は、公営を中心としたエレベーター設置義務のない中層住宅が、市街地での団地の中心であったが、民間の中高層住宅が主流の時代に変わっていくことになる。福岡市も広島市と同様に、戦災による影響を強く受けた都市であるが、復興とともに市街地整備が進められてきた。これに伴って、いくつかの主要市街地での大規模再開発事業、そして各地でのマンション建設が急速に進められていき、市街地の様相が、高層化に向かって大きく変わっていくことになった。

 ちなみに私が最初に調査で福岡に来た時は、国鉄の急行「玄海」を利用したと記憶する。福岡大学に着任時は新幹線が開通していた。博多駅も現在地に移転して10年以上経過していたと思うが、九州の玄関口としての博多口側の駅前の高層ビルだけが異常に目立ち、その背後の中洲との間、筑紫口側はほとんど未整備だったのが印象的だった。また、地下鉄工事が進行中で、路面電車が廃止される時期だったと思うが、市街地は雑然としていた。

 こうした中で、都市内部のマンションも研究対象として大きなウエイトを占めることとなる。マンションも、タイプにより分布・立地地域に特色がみられ、近年は人口の都心への回帰も指摘されている。

「都市の居住地域と日常的都市システム」 
 近年の私の研究の関心は、都市における二方向への住宅地の拡大に対して、そこでの住民の日常的生活の範囲がどのくらいに及んでいるか、そして、その中で地域間の結びつきどのようになっているのか、という通勤通学圏の検討にも及んできた。その結果、私の研究テーマは「都市における居住地域と日常的都市システム」ということになるであろう。

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