2017年6月26日月曜日

徒歩から見る通学路(LC16台 石丸堅一朗 さん)

 今年度第1回目の学生記事をお届けします。文化学科2年生の石丸堅一朗さんが日常のなかで新しいパースペクティブを獲得する面白さを描き出してくれています。



徒歩から見る通学路
LC16台 石丸堅一朗

 2016年3月、私は1台の自転車を買ったはずだった。アメリカの西海岸出身の彼は、整備などされていない浜辺を走るための丈夫で大きな車輪を抱え、それでいてどこか控えめな濃いグレーを身に纏っていた。彼は当然のような顔をして、今まで私がサドルを跨いで以来、幾度となく握り続けてきたその場所に、ブレーキを携えていなかった。どうやら、ペダルを後ろに漕ぐことでブレーキ機能が働く仕組みらしい。中高6年間、汚いママチャリを乗り回してきた私にとって、まさに運命の出会いであり、ひとめぼれだった。それからというもの、彼とはいろいろな場所に出かけた。毎日の通学はもちろん、少し遠いスーパーやコンビニまで買い物に行ったり、近くの神社を巡ったりした。しかし、いつからだろうか。大好きな浜辺の景色を見せてやれぬまま、彼の姿を見る機会は徐々に少なくなっていき、現在では、自分の名前が呼ばれるのを待ちながら、ひたすらベンチを温め続ける代打要員の如く、アパート裏の駐輪場に常に待機している状態である。梅雨の雨に嫌気がさしたからか、冬の寒さをしのぐためにポケットに手を入れておきたかったからか、はたまた眠い目をこすりながら整えた髪型が、向かい風で台無しになってしまったからか。乗らなくなった原因なんて、自分でもよく覚えていない。ただ一つ言えることは、歩きながら眺める通学路には、これまでとは違う景色が広がっていたということだ。

  毎朝家を出て、ほんの数十秒歩くと、「すき家」が見えてくる。さらにそこから進むと「マクドナルド」「ガスト」「城南消防署」「ローソン」「マックスバリュ」が建ち並んでいる。それぞれ形が違うものの、24時間体制であることに変わりはない。

 私が寝ている間にも、誰かがそこでは働いていて、誰かがそこを利用している。私が通学しているときにも、誰かがそこでレジを打っていて、誰かがそこでコーヒーを飲んでいる。自転車に乗って通学する私には、愚かなことにそれに気づく力が無かった。当然のように横を素通りし、気づくことや考えることを放棄していた。しかし徒歩という選択をした今、様々なものに注意が向くようになった。店のガラス越しに見えるおじいさんは、毎日同じ席に座って、何かを飲みながら新聞を読んでいる。老眼なのだろう、新聞を近づけたり離したり、今度は自分の顔を近づけたり離したり、忙しそうだ。たまにペンを握って何かを書き込んでいる。何を書いているんだろう。毎朝何時からそこに座っているのだろう。朝早くから消防車や救急車の車両整備をしている消防士の人たちは、昨夜はどこかに出動したのだろうか。ちゃんと眠れているのかな。自転車で通り過ぎていた場所を、歩いて通り過ぎる。2秒で通り過ぎていた場所を、10秒かけて通り過ぎる。僅かな時間の違いだけれど、この時間が新しい発見を生む。様々な人、しぐさ、表情に気づく。新たな疑問や感情が生まれる。これが、徒歩だから見ることのできた景色。

 次に注目してみるのは、「西の堤池公園」。片江方面から通学する学生なら、知っている人も多いのではないだろうか。この公園は真ん中に大きな池があって、それを囲むようにして遊歩道が敷かれている(正式名称は、〈健康さわやかロード〉らしい)。この遊歩道を半分くらい進めば、福岡大学のすぐ近くの市民センターや城南図書館へとつながるようになっていて、実際にはそこまで変わらないのだろうが、体感的には近道をしたような錯覚を味わうことができるうえに、健康さわやかになれるというまさに一石二鳥の魔法ルートである。

 とはいえ私も、この健康さわやかロードの虜となったのは徒歩通学を始めてからで、自転車で通学しているときは1度も通ったことは無かった。なぜならば、健康さわやかロードの入り口には「この健康さわやかロードには自転車では侵入してはならない」風の注意書きや看板が設置されていて、なぜか私はこの言葉に「この先、日本国憲法は通用せず」という文言に抱く恐怖に似たものを感じていたからである。しかし、そんな中でも勇者は結構存在しているもので、大学生に限らず、小学生、会社員、主婦、翁と幅広い層の勇者が自転車に跨って健康さわやかロードを疾走していることも事実である。また、健康さわやかロードは、ランニングやジョギングをしている人や保育園生が集団でお散歩をしていたりと1日中賑わっていることが多いので、その中を変化球ブレーキ持ちの彼と共に進んでいく勇気が無かったのも、事実である。

前置きが非常に長くなってしまったが、この健康さわやかロードを利用して通学したい場合に、健康さわやかロード初心者が陥りやすいミスを今回はここに記しておきたいと思う。問題となってくるのは「時間」だ。福大に通う学生の中でも、1限から授業が入っている学生は多いだろう。だがその寝ぼけたままの思考でこの健康さわやかロードに足を踏み入れることは許されない。それは何故か。健康さわやかロードの中腹に存在する、福大へと抜けるために通らなければならない関所が開くのは「午前9時」だ。何の因果であろうか。1限の始まる時刻も「午前9時」。つまり、1限へと向かうためにこの健康さわやかロードに足を踏み入れた場合、その先に待っているのはベルリンの壁の如く立ちはだかる、固く施錠された門だけだ。このベルリンの壁は、私の健康さわやかロードデビュー日にも無情にも立ちはだかった。そびえたつベルリンの壁を前に、私は茫然と立ち尽くしているだけだった。時計は8時40分。引き返すしか策は無い。引き返すだけならいい。1限には余裕で間に合うだろう。しかし引き返した先で私を待ち受けるのは、正規ルートで通学中の多くの学生であった。その学生たちが健康さわやかロード勢でなければ何も問題はないのだが、その学生らの中に生粋の健康さわやかロード勢がいたとしたら、私の愚行はすぐさま露呈し、心の中で嘲笑されていたに違いない。この事件はまさに、「健康さわやかロード」という無駄な共通点が生み出した負の遺産であろう。この事件以来、私は正規ルートと健康さわやかロードの2つを巧みに使い分けながら通学するようにまで成長している。

 つい先日、1限へと向かう私は、健康さわやかロードをこちら向きに歩いてくる何かが見えた気がした。私は気づかないフリをして、静かに正規ルートへと足を踏み出した。

 自転車に乗っているから見えるもの、バスに乗っていたから気づいたこと。人が何かを気づき、感じる瞬間は人それぞれだ。私の場合は、それが徒歩であった。様々なモノに気づき、感じ、新しい発見をした。次の発見は、意外にもあなたのすぐ足元に転がっているのかもしれない。

2017年6月25日日曜日

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内



領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内

 私たち教員は分野に応じていくつかの「研究チーム」を運営しています。お互いの研究などを持ち寄って、発表したり討議したりすることは、研究活動を進めていく上でとてもよい刺激になっています。
 下記の研究チーム発表会を開催いたしますので、学生の皆さんもふるってご参加下さい。今回は倫理学の林先生のご発表です。普段の授業での「教員としての顔」とは違う、「研究者としての顔」を見られるチャンスかもしれません。

 文化学科の皆さんは参加自由です。参加したからと言って発言の強制などもありませんので、お気軽に聴講してください。

「善と悪に関する思想的研究」研究チーム代表 平井靖史



領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」
平成29年度 第2回研究会

・日時:7月5日(水)、16:30-18:00
・場所:A612 教室
・提題者:林誓雄先生
・題目:「倫理と共感」

2017年6月24日土曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

今年度第三回目の哲学カフェ、詳細が決まりました。

 【LC哲学カフェ】
 娘よ、ギリシアのためにおまえを生贄に?――ギリシア神話で哲学する

 日時 7月10日(月)16:30-18:00
 場所 A706教室

今まで主にマンガ作品を取り上げてきましたが、今回ははじめての試みとして、ギリシア神話を。取り上げるのは、アガメムノーンが戦争のために娘のイーピゲネイアを生贄にする、というエピソード。

いつものように、参加者の自己紹介は行いませんし、無理に発言する必要もありません。途中入室、途中退室も自由。ちょっとだけ見物してみてすぐに退室、でも構いません。

そろそろ定期試験が気になり始める七月上旬、少しだけ現実逃避して、ギリシア神話と哲学で息抜きを。

エピソード解説
舞台は、トロイア戦争開戦直前の港アウリス。この港に、ギリシア側の軍勢が集結。総大将アガメムノーンが艦隊を出撃させようとするものの、しかし彼が女神アルテミスを怒らせてしまっていたため、女神の妨害で出港できない。予言者によれば、アガメムノーンの娘イーピゲネイアを生贄として捧げない限り、艦隊の出港は不可能。アガメムノーンは苦悩しつつ、娘を生贄に捧げるしかない、と決意。英雄アキレウスと結婚させると嘘をついて娘を呼び出し、彼女を生贄に捧げる……。

LC哲学カフェ開催:愛情の搾取?――『逃げ恥』から考える家族

すっかり報告が遅くなってしまいましたが、6月12日(月)の夕方、今年度第二回目のLC哲学カフェが開催されました。

前回のビブリオバトルから一転、今回は通常の哲学カフェ形式。参加者は学生諸氏や卒業生などが約10名、教員が2名。懐かしい顔を交えつつ、宮野真生子先生が進行役となって、議論がスタート。

今回の素材は、海野つなみのマンガ、『逃げるは恥だが役に立つ』。カフェのタイトルにある「愛情の搾取」という言葉はドラマ版にのみ登場するもので、原作では「やりがいの搾取」。お金を払わずに「好きな人の面倒を見るのがやりがいでしょ」と言って家事労働をさせるのは「やりがいの搾取」なので、ちゃんとお給料を払うべき……?


家事には終わりがない、どこまでやったらよいかの基準が難しい、などの話も飛び交いつつ、議論のメインは家族の問題へ。「家族」という言葉でイメージするものは? 厄介、切っても切れない、温かい……?

子供がいる/いないが家族の基準? いや、今や「ファミリー」という言葉は、親子の関係だけを表すものではない。あるファンたちのサークルが「ファミリー」と呼ばれることもある。ファン同士の強い絆もまた家族? ただし、このサークルからは簡単に抜けられるが、血縁関係の家族から抜けるのは難しい……。

自分の親のいる実家と、自分の子供のいる家族との区別。二つを合わせて一つの家族ではなく、二つの家族を持っている、という感覚。ところで、ペットは家族? 家族。知っていることが増えていくたびに、どんどん家族になっていく、という感覚。

結婚せずに独りでいるのはよい、悪い? 他者との関係性に巻きこまれること、不自由であることの重要性……? しかし、やはり独りは快適。20年後には、結婚することが当たり前でなくなる? あるいは、極端な二極化? 地域による違い、「家」意識の有無、家族経営で仕事をしている場合、等々。

家族と家庭は違う? パートナーや子供と一緒に暮らしている場が家庭で、離れてもつながっているのが家族? 子供が生まれることで、家族から家庭へ? 子供に限らず、一緒に何かを育てることで、パートナーとの関係が変わる? 小学校のクラスでうさぎを育てる経験や、仲間と一緒にアート作品を作り上げる経験もまた、何らかの家族/家庭を生み出す……?

では、どの時点から家族になるのか。夫婦二人だけではまだ家族ではない? 親一人と子一人でも、二人だけでは家族の「族」という感じに欠ける? 人数にかかわらず、長い時間と経験を共有することで家族になる? つまり、何かを共有していることが必要……?


その他、一般的な家族のイメージ、福山雅治主演の映画や歌の歌詞、「家庭的」という言葉が男性について言われる場合と女性について言われる場合との違い、「お財布一緒」問題、等々について議論。話が収束する気配の全く見られないまま、チャイムと共に強制的に終了。しかし終了後の教室でも、しばらく立ち話が続いたのでした。

私が今回感じたのは、家族については個々人のイメージがかなり固定されていて、なかなか自分の家族観から距離をとることができない、ということでした。それは決して悪いことではないにせよ、もしあえて距離をとって客観的に考えてみようとするならば、例えば、映画や小説、マンガやアニメ、音楽の歌詞などに見られる家族像を分析してみる、という手段が有効かもしれません。すでに多くの先行研究もありそうですが、ぜひ、誰かチャレンジを。

さて、次回は7月10日(月)の開催です。今まで扱ったことのないテーマを扱ってみる予定。詳細については、このブログ上の告知記事を参照して下さい。

2017年6月15日木曜日

中国社会に溶け込むムスリム・回民 ―異文化の接触地帯4―(磯田則彦先生)

 平成29年度第5回目の「教員記事」をお届けします。地理学の磯田則彦先生です。「異文化の接触地帯」をテーマに毎年ご寄稿いただいています。今年はその第4回目になります。



中国社会に溶け込むムスリム・回民
―異文化の接触地帯4―

   
     磯田則彦(地理学

 こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。

 まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフステージの要所要所で移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」。以前から、そんなことが気になってしまいます。

 また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。

 次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行う中で身近になってきた分野と言えるかもしれません。過去3回、私のフィールドの中から「インナーモンゴリア」と香港についてご紹介してまいりましたが、今回は中国に暮らすムスリム・回民についてご紹介いたします。

 「回民」(フイミン)と聞いて皆さんはどのような人々を想像しますか?「民」という文字が付いていますから何らかの民族あるいは社会集団のようなものをイメージされたのではないでしょうか?あるいは、中国に関心のある方でしたら、標題からイスラム教徒の「回族」(フイズー)のことではないかと考えたのではないでしょうか?「回民」とは、イスラームとそれにもとづく生活様式をベースとして、中国に暮らす「さまざまな出自の人々」を指します。同国北西部を中心に居住するウイグル族やキルギス族などのムスリムや、中東などから来ているムスリムとは基本的に異なるところが多々あります。彼らは、容姿も一般的な中国人とほとんど変わらず(白い帽子等を除く)、中国語を母語とし、漢族社会に溶け込んだ暮らしをしています。古代以降、いわゆる「海の道」・「草原の道」・「オアシス(絹)の道」を通って現在の中国に辿り着き、定住した人々の子孫です。その過程では混血が進みました。彼らの暮らしはとても穏やかなものです。では、具体的にどのような生活スタイルなのでしょうか?

 前述のとおり、回民の生活の中心にはイスラームがあります。彼らのコミュニティには必ずモスク(マスジッド)が存在します。中国語ではこれを「清真寺」(チンジェンスー)と呼びます。規模の大きなものは文字通り、「大清真寺」と呼ばれます。地域差こそありますが、国内のいたるところ(さまざまな地域)にこれらが見られます。清真寺は神聖なる、祈りをささげる場所であり、まさしく彼らの心の拠り所です。今では、真新しい電光掲示板により日々変化する祈りの時間が示されます。礼拝を告げる合図とともに今日も回民が清真寺に集まってきます。


 イスラームの教えにもとづく回民の生活には、アラビア語のクルアーンを読むことや食物禁忌(フードタブー)を守ることなど、世界のムスリムが日々実践していることが多数含まれています。後者の関係で回民の生業には飲食店経営が多く見られます。「清真」と書かれた看板は、イスラームの教えによる食品の提供を行っている店を表しており、国内のほとんどの都市においてしばしばそれを目にする機会があります。羊肉や牛肉を用いた料理や酒類を提供しないところに特徴があります。

 彼らのアイデンティティは、「ムスリムであり、中国人である」という点に要約されます。私は各地を旅しながら、千年以上に及ぶ彼らの長い道のりを考えるとき、悠久の昔に思いを馳せるとともに、異なる文化をその懐深くに受け入れてきた同国の寛大さ、力強さに深い感銘を覚えます。数千年に及ぶ中原(ジョンユァン)の文化は、異質なものを拒み受け入れず、遠ざけるのではなく、そばに置き寄り添い、受容して共生を図る。それでいて自身のアイデンティティや文化的背景については、決して他者に屈することはない。私がかの地を訪れ、その大地に身を置く時に感じる「何か吸い込まれていくような、溶け込んでいくような、何とも言いようのない感覚」は、実際、同じところからきているのかもしれません。

□磯田先生のブログ記事

2017年6月1日木曜日

目にみえないもの(一言英文先生)

 平成29年度第4回目の「教員記事」をお届けします。4月に赴任された心理学の一言英文先生です。



目にみえないもの
   
     一言英文(心理学

 自己紹介がてら、私がどういう人間で、なぜ文化と心理学の研究をするに至ったかについてこの記事を記したいと思う。そして、それらをふまえ、文化学科で心理学を教える上での学術的な見識のようなものを断片的にでもお伝えできればと考えた。職業柄、自分自身のことを書き綴るのは大変苦手なので、拙い文章になることを予めことわっておきたい。

 私は幼い頃、父の仕事の都合で、日本のはるか南に位置するニュージーランドという国で暮らしていた。人間より羊の数の方が多いこの牧歌的な国は、様々な文化的背景を持つ人が暮らす面白い国であった。マオリという原住民がいるところにイギリス人が入り、両者が和解した歴史なども一役買っていたのかもしれない。私は現地校に入れられ、英語がまったく話せないところでイギリス英語漬けになった。小学校低学年の時分というのは、身振り手振りである程度の友人を作ることができるようで、私はすぐに現地で友人を作ることができた。

 その後、「日本人」であるという理由でケンカになることや、帰国後、学校の友人に「一言君の服装はどこか違う」と言わることを経験してからというもの、心の奥底で漠然と、人々のものの見方は所変わると異なるということに気づくようになった。それも、当の人々は、自分のものの見方が、さも絶対的であるかのように振る舞う。帰国後は、自分なりに日本のことが理解できるだろうと中学校では生徒会をやってみたり、高校では剣道を、大学で居合道をやってみたりしたが、私が納得のできる形で文化に関する理解は得られなかった。どれも内容は楽しかったのだが、日本文化を疑うことなく受け入れた上でしか、これらを楽しむことができなかったためだと思う。私が知りたかったのは、人々が信じて疑わない、目にみえないものであった。

 大学生活も後半に差し掛かる頃、ニューヨーク帰りの先生が開いていた「比較文化心理学」という大変めずらしい心理学の講義を受け、私はそれにのめり込んだ。今思えば、何も正しく理解してはいなかったのだが、初めて大学の勉強に対する知的好奇心が湧いた気がした。結局、その先生のゼミに入り、心理学の基本的なところから応用的な面に至るまで、多くのことを自由に学ばせていただいた。

 私の知的好奇心を後押しした動機は、文化に対する怒りのようなものであった。私は日本人であることを理由に不当に扱われたり、帰国して外者扱いされたことに、子どもながらに不公平さを感じ、その原因が人々の文化にあると思い込んでいたように思う。不当な評価の原因が自分以外の存在にあると認識することは人に怒り感情を生じさせるが、私はこの怒り感情が、幸運にも知的好奇心に結びついた。感情は、それを表す言葉が否定的な印象を持つから不適応的なのではない。感じた後に、人がどのような行動を起こすかが適応的か否かを左右する。臨床心理学を専門としていた私の先生は、私のこの感情を見抜かれたのであろうか、上手く、私の行動を向社会的なもの、すなわち勉強と研究に向けて下さった。

 私見であるが、文化に関する心理学教育の本懐とは、人間の本質的な多様性を理解することで時間や国を超えてさまざまな生き方を生み出した人の素晴らしさに感じ入り、文化に愛情と興味を持って接する人間を育てることだと思う。それらの土台の上に、多様性の尊重や相互理解、忍耐強いコミュニケーションと分かりあいの喜びといった現代的なメリットがあると考える。この土台作りに失敗すると、偏見や拒絶、独りよがりや自文化中心主義に陥る。ここで、人間の本質とは、個人内に存在する物理的・機械的メカニズムのみで成り立っているものではない。我々は、家庭環境如何によって他者との付き合い方が変わり、義務教育の持つ前提によってやる気の出方が変わり、身近な友人関係で共有される常識によって健康習慣が変わる、「社会的に敏感な」本質を持っている。普段の生活の中で、人々がこの心の本質に気づくことは稀である。むしろ、個々人がこの本質に気づかない方が、社会全体としてはうまく回る何らかの力学のようなものが、人間が集まることで生じているのだと思う。とにかく、「魚は自らが水の中で泳いでいることに気づかない」ように、人間も、自らの心のあり方が文化を前提としていることに気づきにくい。つまり、文化と心の関係は目にみえないものである。この点に、文化に関する心理学を学ぶ意義がある。

 文化と心の関係がいかに目にみえないものかを端的に示す実験がある(なお、この実験はインターネット上で体験することができるので、興味がある方は次のURLで参加者になってみてほしい(http://www.labinthewild.org/studies/frame-line/)。
 この課題では、まず、正方形の枠線(例として、一辺9cm)と、その上辺真ん中より、正方形の中心に向かって垂直に引かれた短い線分(3cm)から成る刺激が提示される。課題としては、この刺激を見た後、それを伏せられた状態で線分のみを参加者自らが思い出して再生するというものである。課題は2種類に分かれており、一方では線分の「絶対的長さ」を再生する(正解は3cmの線分を書く)ことを求められ、もう一方では、新しく用意された正方形の枠(一辺6cm)に対する線分の「相対的長さ」を再生する(正解は2cmの線分を書く)ことを求められる。再生時にものさしなどは与えられず、覚えているとおりの線分を自由に再生するので、ぴったり3cmや2cmにはならない。再生された線分の長さが実際の正解からズレていないほど、絶対課題の場合は線分それ自体を知覚し、記憶し、再生することを、相対課題の場合は線分を周囲にある枠との兼ね合いの中で知覚し、記憶し、再生することを参加者が得意としていたことを示す。この課題を北米の欧州系学生と日本の日本人学生を対象に行うと、前者では絶対課題の成績が、後者では相対課題の成績がより良いという結果になる。

 なお、視線を記録するアイ・カメラを用いた後続の研究によれば、実際に日本人学生の方が欧州系学生よりも刺激提示直後から視野の中心に位置する主な対象と、その背景へと、交互に視線を移動していることが示されている。それぞれの国の国立美術館に所蔵されている画家が描いた人物画(人物画は、描かれる主な対象人物と、その人物の周囲に背景がある)においても、アメリカでは人物の顔が絵画全体に占める程度が日本より多く、日本では人物の顔が相対的に小さく、その代わりに服装や屏風といった人物の周辺が描かれる面積が大きく、いわば、背景の中に人物を位置づける描き方をしている。さらに、アメリカと日本の町並みを無作為に撮影し、日米学生にこれらを提示した直後に上と同種の課題を行うと、提示した町並みの国の見方(アメリカの町並みを見た直後は主な対象を、日本の町並みを見た直後は背景を見る)を一次的に再現することもできる。

 この結果は何を意味するか考えて見て欲しい。対象物と背景をどう見るか、という、電気屋で売っているセンサーでも行えるはずの認知過程が、実は普段目にしている環境からの情報入力によって特定の見方に水路づけられているのである。そして、この環境からの情報入力は、時代を越えて、先代のものの見方が反映された町並みの中で暮らすことで、次世代が水路づけられるというサイクルを介して再生産されている。また、文化と心の真の関係は、この例のように、実証心理学の方法論を使って標準化されたフェアな比較方法を用いることで垣間見ることができる。

 ちなみに、私自身も上の課題を行ってみた。このサイトでは、調査の最後に、欧州系学生と日本人学生の平均値に対し、参加者一人の結果がどの程度であったかを図示してくれるフィードバックが与えられる。「自分は日本人の平均値には及ばないだろうな」と思って結果を見てみると、興味深いことに、絶対課題を行った場合には欧州系学生の平均値以上に中心的に認知し、相対課題を行った場合には日本人学生の平均値以上に背景文脈的に認知していたとの結果であった。私は物の見方まで文化間に生きているようである。以前、国際学校に通う学生を対象に、心理尺度による価値観の測定を行ったことがあった。その時も、一般的な日本人学生に比べ、彼/彼女らの価値観は日本的な特徴と、日本では主流でないとされる価値観との両方が共に高い得点を示していた。すなわち、個人から得られる価値観の測定値を見る限り、私達は異なる文化の産物を自らの内に同居させることが可能なのである。むしろ、私達一人ひとりが異なる文化に呼応できる受け皿を持っている証左であると捉えれば、多様性教育の意義に対する裏付けの一つとなるような気がしている。

 人間は文化を使って生きている。ホモ・サピエンスがアフリカを歩き出し、多くの集団で生活をするようになって以来、人間はなんらかの文化の中で生きてきた。その頃から、人間は多くの他者と文化を創り、文化で共有される「人間らしい」生活を送り、そこから人生の意味を得て暮らしてきた。ポジティブ心理学と呼ばれる潮流の健康心理学と文化心理学の知見によると、人生に意味を感じている人(私の人生には意味がある、という項目文に賛成する人)ほど、血中の慢性炎症反応を引き起こす遺伝子発現が低下している。文化は、おそらく病院も保険制度も無い時代から、私達の先祖に人生の意味を提供することを通して彼/彼女らの普段の健康を保ってきた可能性がある。文化を損ねることは、日常の中で維持されている社会的に敏感な心に対し、生きる意味を失わせることに繋がりかねない。

 いうまでもなく、文化を形成するためには、多くの人間が共存する必要がある。人間が初めて大規模集団で暮らし始めた頃発明された最初の武器は投擲具(とうてきぐ)と呼ばれる投槍であったが、人間が他者に見せる笑顔は、丁度、人がものを投げて届く遠方から認識できる表情である。笑顔に用いられる大頬骨筋は一本のペンを前歯で噛むと収縮させることができるが、ペンを噛ませた状態で握力計を力いっぱい握ると、ペンを噛ませない状態に比べて力を入れることができない。おそらく人間は、争うか否かという瀬戸際において、笑顔を見せて共存してきたのである。グローバル経済と国家主義政策が渦巻く現代においては、太古の昔から人間が笑顔を持って互いを尊重し合い、互いに繋がりを持って文化を作り生存してきたという経緯を忘れてはならないと思う。このような観点に立ち、私自身は現在、文化によって笑顔の意味、すなわち幸福感という感情にこめられた意味の文化差について研究している。ジョン・レノンは人生の鍵が幸福の追求にあると歌ったが、もし、その幸福の追求が文化によって異なる行動を意味するのであれば、これほど悲惨な誤解はない。

 このように、私は自身の幼い頃の経験から、目にみえないもの−文化と心の関係−に興味を持った者である。勉強の結果、本来の目的であった日本文化への理解が進むこと以上に、人間がいかに社会的に敏感な存在であるか、そして、それゆえに文化が物の見方や健康といった、人間の根本的な部分に直結することを知るに至った。私は、私の先生がしてくれたように、学生には自らの知的好奇心を発揮して自由に学んでもらいたいと思っている。私はたまたま上のような見識を持つに至ったが、多様な背景を持つ学生は、それぞれに異なった見識に行き着くと思う。それらを知ることは私自身とても楽しみなことであるし、その見識を交わすことは笑顔で共存する人間にとって本質的な楽しみの一つだと信じている。また、上で引き合いに出したように、心理学は人文社会系の諸分野のみならず、予防医学や国際交流をはじめ、およそ人の文化的に健全な生活に関わる多様な分野と協働できる可能性を秘めているとも信じている。文化学科で心理学を学ぶ学生には、ぜひその社会的に敏感な心を発揮し、さまざまな分野との接点を秘めたこの学問を学ぶことで、人間のすばらしさに気づいて欲しいと期待し、本日の結びとしたい。


参考文献
増田貴彦・山岸俊男(著) 文化心理学 −心がつくる文化、文化がつくる心− <上・下> 培風館
G. ホフステード・G.J. ホフステード・M. ミンコフ(著)岩井八郎・岩井紀子(翻訳) 多文化世界 −違いを学び未来への道を探る− 有斐閣
Markus, H. R., & Conner, A. (2014). Clash!: How to thrive in a multicultural world. NY, Plume

2017年5月31日水曜日

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内

 私たち教員は分野に応じていくつかの「研究チーム」なるものを運営しています。お互いの研究などを持ち寄って、発表したり討議したりすることは、研究活動を進めていく上でとてもよい刺激になっています。

  下記の研究チーム発表会を開催いたしますので、学生の皆さんもふるってご参加下さい。今回は皆さんは一年次の文化学基礎論でおなじみ、宗教学の小笠原先生のご発表です。普段の授業での「教員としての顔」とは違う、「研究者としての顔」を見られるチャンスですよ。

  文化学科の皆さんは参加自由です。参加したからと言って発言の強制などもありませんので、お気軽に聴講してください。

「善と悪に関する思想的研究」研究チーム代表 平井靖史



領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」
平成29年度 第1回研究会


・日時:6月7日(水) 16:30-18:00
・場所:A612 教室
・提題者:小笠原史樹 先生
・題目:「エデンの園における死と永遠の命――『創世記』2章4節b-3章24節の再検討」

2017年5月29日月曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

今年度第二回目の哲学カフェが、下記の通り、開催されます。

 【LC哲学カフェ】
 愛情の搾取?――『逃げ恥』から考える家族

 日時 6月12日(月)16:30-18:00
 場所 A706教室

前回の特別企画から一転、今回は通常の哲学カフェを。

テーマは「家族」、取り上げる作品は『逃げるは恥だが役に立つ』。海野つなみのマンガ作品で、昨年ドラマ化もされて話題になりました。

いつも通り、参加者の自己紹介は行いませんし、無理に発言する必要もありません。途中入室、途中退室も自由。ちょっとだけ見物してみてすぐに退室、でも構いません。

ちなみに、前期の月曜4限は「応用倫理学」の授業。今年度の「応用倫理学」はオムニバス形式で、ちょうどこの日は、性愛の問題に関する共同討議の回。授業では同性婚などについて議論される予定なので、時間の空いている人には、まず4限の「応用倫理学」に参加し(A606)、続けて哲学カフェへ(A706)、というコースもおすすめです。

祝日のない六月の半ば、気忙しい日常から少し離れて、軽い哲学談義のひとときを。

2017年5月22日月曜日

平成29年度 卒業論文題目届の提出について

「卒業論文」を登録している四年生は、卒業論文の題目届を以下の要領で提出して下さい。

1.題目届の入手、記入について

【入手方法】
・FUポータルのお知らせ「卒業論文・卒業研究 題目届の配布、提出について」の添付ファイルから題目届をダウンロードし、A4・横向きで印刷して下さい。

【入手期間】
・6月1日(木)9時~6月30日(金)16時30分

【記入要領】
・黒のペンまたはボールペンを使用すること。鉛筆書きは不可。
・指導教員の署名・捺印を必ず得ること。

2.題目届の提出について

【提出期間】
・6月15日(木)~6月30日(金)
※時間:平日は9時~16時30分。土曜日は正午まで。

【提出場所】
・人文学部事務室(文系センター低層棟1階)

各自、指導教員と十分に相談の上で題目を決め、上記の期間内に必ず題目届を提出して下さい。何か不明な点があれば、教務連絡委員の小笠原か本多先生まで。

2017年5月15日月曜日

「それって本当?」の心の科学(縄田健悟先生)

 平成29年度第3回目の「教員記事」をお届けします。4月に赴任された心理学の縄田健悟先生です。



「それって本当?」の心の科学
   
     縄田健悟(心理学

 4月より文化学科に新たに着任しました縄田健悟です。専門は社会心理学です。

 私はど真ん中の研究テーマは、集団間紛争とか集団暴力とかチームワークとかの集団研究なのですが、それとは別に心に関する俗説の研究に結構興味があって、色々と調べているんです。
 というわけで、今日は心理学担当として、心に関する俗説の話を少し行いたいと思います。

 人の心に関しては多くの言説が世の中に存在しています。心は誰もが持っていて、みな一家言あるわけで、誰もが心に関して好き放題、言いたい放題です。
 例えば、「手が冷たい人は心が温かい」とか「年をとるとお金に執着する」とか「耳たぶが大きい人は幸せになる」とか。

 さて、心理学にも色んな立場と専門性がありますが、多くの心理学者は実証主義の立場で研究を行っています。これは客観的な数量データを根拠として人間の心や行動を解明しようという立場です。心というのは曖昧で捉えようが無いものだからこそ、数量化してできるだけ客観的に理解しようとしているわけです。

 心理学の実証主義の目からすると、上で挙げた俗説は「実際のところどうなっているの?」「統計的な傾向が本当にある?」というのが気になってきます。
 心に関する多くの俗説は、ちゃんとデータを取って検証してみればいいんです。
 とってもシンプル。

 既に分かっている心の俗説の真偽を、いくつか紹介しましょう。

 私も実際に論文を書いた俗説としては、 “血液型性格判断”です。血液型と性格に関して、日本には広く関連性が信じられています。A型はXXな性格だ~、B型の人はXXしがちだ~といったものです。
 果たして本当でしょうか?

 心理学の実証的な論拠という視点からすると、血液型と性格は全く関連がありません。
 心理学者は繰り返し統計的に検証してきましたが、日本人でも外国人でも血液型間の一貫した性格や心理の違いは見つかっていません。
 例えば、私の論文では、日本とアメリカの約1万人のアンケートデータを分析しました。1万人もデータがあれば血液型間のわずかな差でも検出できるのですが、分析結果では68項目中65項目で差が見られず、残り3項目も統計的な誤差の範囲でした。そして、血液型で説明できる違いは0.3%以下という結果でした。これならもう違いはゼロだと言って良さそうです。

 ちなみに、星座と性格も関係ありません。イギリスとかだと星座と性格の関連は、かなり広く信じられているみたいですけどね。

 あ、ただし、生まれ月が人間に影響することはあったりします。
 といっても、これは星占いの話ではなくて、相対年齢といって、同学年内の成長差の話です。日本だと4月生まれと3月生まれで丸1歳近く成長が異なります。
 早生まれの1-3月生まれの人は、同世代よりも心身の成長が少し遅いために、スポーツでの活躍が少なく、学業成績も良くないことが多いようです。ただし、性格面の違いは研究ごとにまちまちで、まだよく分かっていません。

 もっと迷信めいたものとしては、満月の夜は出産や異常行動や犯罪が増えるとか聞いたことないですか?ところが、月の満ち欠けと人間行動や事件との間に、一貫した統計的な関連性は見つかっていないとのこと。

 もう少し社会心理学に関連した俗説も紹介しましょう。「テレビやゲームが人を暴力的にする」という俗説があります。その反対に「テレビやゲームで暴力性を発散するから、むしろ暴力の抑止になるのだ(カタルシス効果)」という説も言われます。
 真反対の予測ですが、どちらが正しいのでしょうか?

 実証研究によると、暴力的な映像視聴やゲームプレイは攻撃性を高めます。実験研究でも長期縦断調査研究でも、暴力的なゲームと攻撃性の上昇の関連は見られています。だから、前者の方が正しく、暴力性の発散を主張するカタルシス効果は間違いだということになります。

 ただし、注意すべき点として、メディアが暴力性を高めるのは、内容が暴力的な内容の場合に限られます。たとえば、ボクシングなどの格闘技番組の視聴や、銃でバンバンと相手を殺しながら進むFPSゲームが暴力内容を含むゲームが典型です。こうした内容のメディアへの接触は確かに人を暴力的にします。
 逆に、攻撃要素の無いゲーム、たとえば「おいでよどうぶつの森」や「テトリス」などでは暴力性が高まるわけではないでしょう。「テレビやゲーム=悪」という単純な悪玉論で片付けられるものではないのです。

 とまあツラツラと紹介しましたが、こんな感じで、実証主義の目からは、世の中の心の俗説は、ちゃんと検証して白黒つけるべきだと考えているわけです。

 さらに、上の話を聞くと、そこから色々と疑問が浮かんできませんか?
 じゃあ、星座や血液型ではなく風水とか筆跡なら人間心理と関連しているの?とか、インターネット利用やスマホ利用は攻撃性と関連するの?とか。もしくは、私が最初に俗説の例で挙げた「手が冷たい人は心が温かい」とか。 

 さあ、どうなっているんでしょうね。
 データ収集して検証してみないと。
 まあ、これまでの類似研究ではこうだったとか、理論的にこうなりそうだとかの予測はできますし、当然研究するなら先行研究調べから入ります。
 海外の論文まで当たってみれば既にドンピシャで検証済みの可能性もあります。

 というわけで、自分なりの仮説で調べてみたい人は卒論やゼミ研究でやりましょう。
 私のゼミや卒論指導でお待ちしています。

参考文献
【書籍】

【論文】

2017年5月9日火曜日

LC哲学カフェ開催:友情をめぐるビブリオバトル

連休明け初日の5月8日月曜日の夕方、今年度第一回目のLC哲学カフェが開催されました。

今回は新入生歓迎の特別企画として、「友情」をテーマにしたビブリオバトルを開催。参加者は学生諸氏や教員、卒業生などを合わせて十数名。残念ながら、新入生の参加者はゼロ……。とはいえ、それはそれで一興。

各発表者に与えられた時間は五分。制限時間をフルに使って、自分の選んだ作品を口頭で紹介。その後、数分の質疑応答。発表者は学生さんが四名、卒業生が一名。最後に「エキシビジョン」として、教員が一名。

今回紹介された作品は、発表の順に下記の通りです。

 1.「ニュー・シネマ・パラダイス」(映画)
 2.浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(マンガ)
 3.「グッドモーニング、ベトナム」(映画)
 4.デボラ・インストール『ロボット・イン・ザ・ガーデン』(小説)
 5.村上春樹『羊をめぐる冒険』(小説)
 6.「ジーザス・クライスト=スーパースター」(映画)(投票対象外)


少年トトと映写技師アルフレード、「かどで」と「おんたん」、アメリカのクロンナウア上等兵とサイゴンの少年「ツアン」、中年男性のベンとロボットの「タング」、「ぼく」と「ねずみ」、イエスとイスカリオテのユダ――。

様々な「友情」の在り方とそれぞれの作品の魅力を伝えるべく、各発表者が奮闘。時間が足りずにプレゼンが途中で終わってしまう場合もあれば、逆に時間が余ってしまい、慌てて話題を探すケースも。

すべての発表が終了した後で、どの作品が一番観たくなったか/読みたくなったか、という基準で参加者全員が投票。開票の結果、『ロボット・イン・ザ・ガーデン』が今回の「チャンプ作品」と決まりました。

その後、残り時間で「友情」に関する議論を、少しだけ。相手の存在を望むことが愛で、その中に友情も含まれる? 利害関係が絡むと友情ではない? 皆、友人関係を「学校モデル」で考えすぎている……?

「私たち、友人だよね?」と友情を確認することの是非が問われ、「社会人になって友だちの作り方を忘れた」などの発言も飛び出す中、六時を告げるチャイムと共に終了。


というわけで、今年度の哲学カフェも無事(?)スタート。次回は6月12日、やはり月曜日の夕方に開催される予定。去年ドラマ化されて話題になった、あのマンガを題材に……?

次回の詳細については、またこのブログ上で告知します。祝日のない六月中旬、軽い哲学談義と珈琲で、ぜひ気分転換を。

2017年4月30日日曜日

孔子の爪―中江藤樹記念館を訪問して―(中村未来先生)

 平成29年度第2回目の「教員記事」をお届けします。4月に赴任された哲学の中村未来先生です。



孔子の爪―中江藤樹記念館を訪問して―
   
     中村未来(哲学

 本年度より福岡大学に参りました、中村未来です。これからどうぞ、よろしくお願いいたします。

 今年の2月、雪の降りしきる中、滋賀県高島市にある日本陽明学の祖・中江藤樹(1608~1648)の書院跡と記念館とを訪問しました。


 どちらの施設でも、スタッフの方が丁寧に解説してくださり、中江藤樹の事績とそれを支えた人々について、詳しく知ることができました。陽明学や中江藤樹についての知識は、それなりに書物で得ていますが、やはり当時使用されていた書籍や器物を目の当たりにし、実際にその土地を歩いてみると、より一層その生き様や思いが伝わってくるようでした。


 付近には、墓碑の後ろに盛土がなされた中江藤樹の儒式の墓や、関連書籍などを販売している休憩所「良知館」もあり、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

 ただ、この参観において、一つだけとても気になることがありました。それは、記念館に展示された孔子の肖像画の爪が驚くほど長かったことです。
 これまで、あまり孔子画像の爪について気にすることはありませんでしたが、同じく山形県鶴岡市にある庄内藩校「致道館」所蔵の孔子「聖像」(下記【参考】URL参照)の爪や、玉川大学教育博物館(東京都)が所蔵している「孔夫子之像」の爪も非常に長く描かれているという特徴があることを知りました。
 孔子画像(および玉川大学所蔵の「孔夫子之像」)については、次のような解説がなされています。


上の前歯が出て、手指の爪が伸びた状態に描かれるのが図像表現上の特徴で、聖人思想家のイメージからは少々ずれる。本図は出っ歯ではないが、やはり右手親指の爪が長く描かれている。
(菅野和郞・解説、玉川大学出版部『全人』2010年9月号)


 孔子は中国古代、周王朝の権力が衰退した春秋時代末期(紀元前551年、あるいは紀元前552年)に生まれ、仁や孝、礼といった徳目を説いた思想家です。そのため、この長い爪を見ると、どうも礼儀作法からは外れた粗野な印象を受けてしまいます。
 礼拝像(仏画)の「長い爪」については、「道教的・土俗的」(井手2011)と捉えられることもあるようですが、儒家の祖と言われる孔子の爪が長いのは、一体どのように考えれば良いのでしょうか。
 この謎に向き合う時、恐らく、中国思想に少し関心をもっておられる方は、まず始めに儒家経典『孝経』にある「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり」(開宗明義章)という一文が想起されるのではないでしょうか。親から授かった体は、髪や皮膚(爪)に至るまで傷つけてはいけない、それが「孝」の始めだとされている有名な言葉です。

 また、孔子の尊崇した古代聖人・周公旦は、幼い成王が病に倒れた時、自身の爪を切り黄河に沈め、身代わりとなることを祈ったと言われています(『史記』魯周公世家、蒙恬列伝)。
 さらに、始皇帝が絶賛した法家の書『韓非子』内儲説上篇には、切った爪をわざと隠し、それを臣下に探させる韓の昭侯の話が載っています。この記事に対して、江戸時代の学者・太田方は「人主の爪は汚れた場所には捨てず」、「生きている時はそれを集めておいて(捨てず)、死して後、小袋を作ってこれを盛る」のだと解説しています(『韓非子翼毳』内儲説上篇)。このことから、少なくとも爪には、古代より自身の体の一部であるという認識が強く含まれており、それが親との繋がり(孝)や体の一部を用いて行う呪術的な儀式などへと展開していったのであろうことを窺うことができます。

 ただし、南宋の学者・朱子は、書院で孔子を祭る際、塑像を造る必要はなく、その時々に臨んで席を設ければよいと述べています(『朱子語類』巻3)。ここには、大切なのは「像」ではなく、その「気」の同調性だと説く朱子の主張が込められていると考えられます。
 なるほど、そうであれば、孔子像の爪が長いことを現代的な感覚で不気味に思うことと同じくらい、儒家的だ儒家的でない等と古代思想史の知識だけで論ずるのは危険であるし、ナンセンスなのかもしれません。この謎は謎のまま、もう少し楽しみたいと思います。


【参考】
庄内藩校致道館HP(2017年4月30日確認)
・菅野和郞(解説)「孔夫子之像」(玉川大学出版部『全人』742、2010年9月号、43頁)
・井手誠之輔「礼拝像における視覚表象 : 宋元仏画の場合」(『死生学研究』16、2011年10月、221頁)




LC哲学カフェ開催のお知らせ


今年度第一回目の哲学カフェ、詳細が決まりました。下記の通りです。

 【新入生歓迎特別企画】
 友情をめぐるビブリオバトル

 日時 5月8日(月)16:30-18:00
 場所 A706教室

今回は特別企画として、新しくLCに加わった一年生を歓迎すべく、上級生たちがビブリオバトルを繰り広げます。

バトルのテーマは「友情」。広い意味での「友情」に関わる小説、マンガ、映画、アニメなどから、発表者(5名程度)が好きな作品を一つ選び、5分間でプレゼン。数分の質疑を経て、次の発表者へ。すべての発表が終わった後、どの作品が一番読んでみたくなったか/観てみたくなったか、という観点から教室中の全員が投票し、「チャンプ作品」を決定。優勝者には豪華な賞品が……?

なお、参加者の自己紹介は行いませんし、無理に発言する必要もありません。途中入室、途中退室も自由。ちょっとだけ見物してみてすぐに退室、でも構いません。

特に新入生の皆さんは、ぜひ気軽にのぞいてみて下さい。ちょうど連休明けの初日で、五月病の対策にもなるはず。


ビブリオバトルの発表者は随時、募集中。興味のある人は、宮野先生か小笠原まで連絡を。

※上記二枚の写真は、昨年の12月5日に開催された「「君の名は。」で哲学する、再び」の模様です。

関連記事:

2017年4月21日金曜日

平成29年度 文化学科ガイダンスゼミナール&新入生歓迎会 が開催されました

 4月15日(土)に中央図書館多目的ホールで、新入生を対象とした文化学科ガイダンスゼミナールが開催されました。本年度のテーマは「文化学科で考える<環境と人間>」。まず林誓雄先生が「地球なんて捨てて宇宙へ行こう!?—環境問題を哲学する」、藤村健一先生が「自然環境と地域性—県民性研究・風土論・地誌学の視点」と題してミニ講義をおこないました。

 林先生は講義の冒頭、「いやぁ、まだまだ地球って寒いよね、もっと温かくなってもいいよね。地球温暖化万歳じゃない?」と挑発的な態度に出ます。さらに、「そもそも、どうして私たちは地球環境を守らないといけないのだろうか。今や別の惑星をテラフォーミングすることが現実味を帯びてきているのだから、地球の環境がダメになったら、宇宙に出て、どんどん宇宙で使える星を見つけて、人類の存続を図った方がかしこいんじゃないの?」とたたみかけます。もちろん、それは学問的な挑発。そして、新入生には、この林先生の挑発的意見に、どうやって「論理的に」「正当な根拠をもって」反論するか、ということが課題として出されました。


 一方、藤村先生の講義は、最近テレビでよく見る県民性というのは、信用に値するのかという問いかけから始まりました。山陰は日照時間が少ないから、陰気な性格になりやすい、というけれど、じっさいの日照時間を調べたら・・・とマスメディアを賑わす疑似科学を暴く一面も。さらに、和辻哲郎の風土論も実証的なものではない、という指摘などもあったうえで、単に地形や気候だけでなく、地域の文化や宗教、産業や生活の様々な側面をデータに基づき多角的にみていく地理学の手法についての紹介されました。そして、新入生には日本の諸地域を地理学の手法で読み解き、そこから県民性として何が導出できるのか考えてみよう、という課題が出されました。


 新入生たちは、グループごとにこの二つの課題のいずれかが割り当てられ、3時間に及ぶグループ討議と発表準備の時間が与えられました。図書館で資料を調べたり、ひたすらに議論したり、発表の形式に悩んだり・・・あっという間に時間は過ぎます。サポートの上級生の手を借りつつ、なんとかレジュメを作り終えたのは、どのグループもほぼギリギリの時間でした。

 午後の前半は林先生の課題に当たったグループから、手書きのレジュメをスクリーンに映しながら発表をおこないました。そもそも、別の惑星をテラフォーミングするというけれど、それは一体どれくらいの時間がかかるのか、また金額はどれくらいになるのか、という実際的な問題から、地球の人すべてが移住した場合「国」という概念がなくなり、言語や文化の違いを越えて共生することには難しさがあるのではないかといった意見や、林先生がいうところの「姥捨山戦略」は対象を「モノ」のように扱っているが、地球は単なるモノなのか、という意見など。しかし、なかなか林先生にクリティカルヒットするものは出ず・・・、「人としてどうかと思う」という新入生のコメントも飛び出しました。

 休憩を挟んで後半は、藤村先生の課題を担当したグループの発表となりました。宮城・静岡・大阪・山口が取り上げられ、それぞれ地形・気候・地域の成り立ちと歴史・産業形態などが紹介され、そこから県民性を探っていくという取り組みでしたが、一口に「県」といってもかなりの広がりを持つもので、統一的な県民性を見つけ出すということなかなか難しい課題だったようです。ただ、じつはそんなに簡単に統一的な特徴など存在しないんだ、ということがわかっただけでも学術的には大きな進歩だったのではないでしょうか。

 最後の総合討議では、小笠原先生一言先生の質問が呼び水となり、新入生の皆さんから積極的な発言が飛び出し、熱いバトルが繰り広げられました。学術的な議論とは、一体どういうものなのかを少しでも垣間見てもらえたとすれば、とても嬉しいのですが、どうだったでしょうか?


 そして、ラストは新入生歓迎パーティー。一日勉強し尽くして疲れ果てた新入生の皆さまはともかくよく食べる(笑)美味しいご飯やケーキを片手に同級生や、先生たちとガイダンスゼミの感想(愚痴?)を言いつつ、笑いながら、あっという間に閉会の時間を迎えました。

 新入生のみなさんは、まさに学問の扉を開けたところです。今回のガイダンスゼミがその指針になることを祈っています。

 最後になりますが、この会を開催するにあたってサポートを担当してくれた上級生の皆さまに心より御礼申し上げます。

関連記事



2017年4月18日火曜日

人生と美術史と(落合桃子先生)

 平成29年度最初の「教員記事」をお届けします。本年度は落合桃子先生(美術史)、中村未来先生(哲学)、縄田健悟先生(心理学)、一言英文先生(心理学)の4名の先生方を新しく文化学科にお迎えしました。
 「教員記事」最初の4回は、この4名の先生方にご寄稿いただく予定です。
 第1回目は美術史の落合桃子先生です。



人生と美術史と
   
     落合桃子(美術史

 このブログは、どのような方が読んでくださるのでしょうか。大学生の皆さん、文化学科に興味を持ってくださっている高校生の皆さんが多いのでしょうか。それならば、自分の高校・大学時代のことから、話を始めるのがよいのかもしれません。

 神奈川県に生まれ、地元の幼稚園と小学校に行った後、東京都内にあるキリスト教系の中学・高校で学びました。昨今ヒットした映画『君の名は。』の主人公の一人、立花瀧が住んでいる(という設定の)駅の近くに私の通っていた学校がありました。映画では主人公たちが電車に乗っている場面がよく出てきますが、私も同じようにJR線などで学校に行っていました。満員電車での通学がストレスだったのか、あるいはカトリックの厳格な校風に馴染めなかったのか、中高生時代には、自分とは何者なのか、人生とは何なのか、そんなことを悶々と考えてばかりの日々でした。

 その頃によく聴いていたのが、PEALOUT(ピールアウト)という日本のロックバンドの音楽でした。「April Passenger」「Summer’s gone」「Winter」といった季節や時間をテーマにした曲が多く、人生とは時間の流れであって、季節の移り変わりのようなものなのだろうとイメージをするようになりました。『GYRO』というマキシシングルのCDジャケットには後ろ姿の人物も登場しています。今になって思えば、この時期に漠然と考えていたことが、後の美術史研究のテーマにつながっていくことになったようです。

 大学生になり、初めは心理学を志すものの、美術史という分野があることを知り、美術史を学ぶようになりました。今日まで研究を続けていることを考えれば、正しい選択だったのでしょう。大学生の頃は、時間があれば美術館に行き、分野や時代、ジャンルを問わず、多くの展覧会を観るようにしていました。

 卒業論文では、第二外国語がドイツ語だったこともあり、ドイツ・ロマン派の風景画家として知られるフリードリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)を取り上げました。後ろ姿の人物の描かれた作品で有名な画家でもあります。自分の関心とリンクしていたようで、大学院の修士論文と博士論文でも同じ画家の作品研究を行うことになります。

 修士論文では、フリードリヒの晩年の代表作《人生の諸段階》の作品研究を行いました。バルト海に面した浜辺に、杖をついて外套をまとった後ろ姿の老人をはじめとする5人の人物が描かれています。背景の海には5隻の舟/船が見えています。薄雲のかかった夕焼けの空が広がっています。この絵について政治的・社会史的な解釈を提示しました。

フリードリヒ《人生の諸段階》1834-35年,ライプツィヒ美術館

 博士課程に進学してからは、一日の4つの時や四季、人生の諸段階を主題とした、複数の画面からなる連作形式の作品へと関心を広げました。フリードリヒの連作で一日の時と四季、人間の一生、そして宇宙の流れまでもが同じ連環のうちに捉えられているのはどうしてなのだろうと思ったのです。調査を進める中で、こうしたテーマは19世紀前半のドイツで大変好まれた画題であって、シンケル(Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841)やコルネリウス(Peter von Cornelius, 1783-1867)といった同時代の多くの画家たちがこの主題の絵画作品を制作していたことがわかってきました。また18世紀末から19世紀前半のドイツでは、哲学者のヘルダー(『人類歴史哲学考』1784-1791年)やヘーゲル(『歴史哲学講義』1837年)が書いているように、人類の歴史が幼年期・青年期・壮年期・老年期という人間の一生として捉えられていました。こうした時代背景の中で、フリードリヒは絵を描いていたのです。

 フリードリヒという画家の絵について研究することで、実は自分の人生について考え続けていたのかもしれません。これまでの研究成果を博士論文としてまとめることができ、これからは新たなテーマにも取り組みたいと考えています。この春から文化学科で教育や研究ができることをうれしく思っています。どうぞよろしくお願いいたします。


縄田健悟 講師



□縄田先生のブログ記事
「それって本当?」の心の科学

□縄田先生の授業紹介


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□研究室 : 文系センター棟8階 818号室

□専門分野 : 社会心理学、集団心理学、組織心理学  (→心理学って?)

□現在の研究テーマ:
 集団間紛争と集団暴力、ならびに高業績を生み出すチームワーク

□教育研究活動:
 人は集団の中で生きる社会的生物であり,多くの影響を集団から受け、多くの影響を集団に与えています。こういった"集団心理"を私は専門に研究をしています。”集団心理”には功罪あるのですが、集団のプラスの側面として、高業績を生み出す集団過程(チームワーク)を、集団のマイナスの側面として、集団間紛争と集団暴力を、主たるテーマとして研究しています。

□担当科目(2017年度):
 心理学A・B、社会心理学、集団心理学、文化学演習 ⅢⅣ・ⅤⅥ


□提供できる模擬講義
「ヒトと集団の社会心理学」


□受験生へのメッセージ:
 高校までの勉強は,先生が導く知識をいかに正しく当てるかというものでした。
 それに対して、大学での学問は、自らがその知識を開拓する側です。誰も知らない学問という土地をあなたが切り拓くのです。皆さん自身が自分独自の研究テーマを定めて、福大人文学部文化学科で一緒に新たなフロンティアを開拓しませんか?


□卒業論文について
 社会心理学、集団心理学に関する内容であれば、何でも構いません。各自で興味を持てるテーマを決めてもらいます。手法面では、特に定量データを根拠に検討するという実証的な手法で取り組んでもらいます。興味があれば、ひとまず相談に来てみて下さい。

2017年4月11日火曜日

落合桃子 講師


□落合先生のブログ記事
人生と美術史と


□落合先生の授業紹介


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□研究室 : 文系センター棟7階 721号室

□専門分野 : 西洋近現代美術史、ドイツ美術 (→美術史って?)

□現在の研究テーマ :19世紀ドイツ美術

□教育研究活動
 ドイツ・ロマン派の風景画家として知られるフリードリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)や同時代の画家たちは、四季や一日の4つの時をテーマとした絵画作品を数多く制作しています。こうしたイメージを分析することで、画家自身の世界観や、当時の歴史認識を浮かび上がらせたいと研究を続けています。

□担当科目(2017年度):
芸術A・B、西洋美術史、博物館資料論、基礎演習Ⅰ・Ⅱ、文化学演習 ⅢⅤ・ⅣⅥ


□提供できる模擬講義
「絵の見かたを教えます―絵画鑑賞入門」


□受験生へのメッセージ:
 文化学科では、哲学・宗教学・社会学・心理学・文化人類学・地理学・美術史といった多彩な専門科目が用意されています。まだ自分が学びたいことが決まっていなくても、学びを進める中で関心のある分野を見つけることができるでしょう。文化学科で共に学べることを楽しみにしています。


□卒業論文について
 美術やアート、広い意味で視覚イメージに関するもの。「芸術」担当の教員は私のほか、浦上雅司先生と植野健造先生がいます。それぞれの先生に相談してみてください。

2017年4月10日月曜日

一言英文 講師



□一言先生のブログ記事
目にみえないもの


□一言先生の授業紹介


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□研究室 : 文系センター棟8階 801号室

□専門分野 : 感情心理学、比較文化心理学 (→心理学って?)

□現在の研究テーマ :
 幸福感の文化比較、向社会的感情の文化比較

□教育研究活動
  一見個人的なもののように思われる「感情」ですが、実は暮らしている社会環境や文化集団で一定の価値観を支えるような働きを持っていると考えています。以下の和文図書に過去の研究を収めておりますので、ご覧ください。
・『自己意識的感情の心理学』(北大路書房)
・『心理科学の最前線(K.G.りぶれっと No.26)』(関西学院大学出版会)

□担当科目(2017年度):
心理学A・B、文化学特講Ⅱ、基礎演習Ⅰ文化学演習 ⅢⅣ・ⅤⅥ

□提供できる模擬講義
「感情心理学」
「文化心理学」
「健康心理学」
「心理統計法」
「心理調査法」


□受験生へのメッセージ:
 高校までの勉強は腕立て・腹筋・背筋のような物です。鍛えた筋肉を使って何を考え、何を見て、何に問題を見出して、何をするのか。これらを探し、取り掛かる正解の無い勉強、すなわち「学術」を行うのが大学です。あなたが取り掛かることで世の中に生まれるたった一つの答えがあります。ぜひ、一緒に学術をしに来てください。お待ちしています。


□卒業論文について
 感情心理学を専門にしていますので、人の感情の仕組みや感情に関する行動の研究に興味のある方など大歓迎です。また、私自身の研究で感情の文化比較を行っておりますので、文化の異なる人々の感情を比較する研究にも関心があります。国だけでなく性別、年齢、地域、習慣、職業や生活スタイルといった文化的多様性の間における人々の感情の異同やその要因について心理学的な研究を行いたいという方、ぜひご検討ください。

中村未来 講師


□中村先生のブログ記事
孔子の爪―中江藤樹記念館を訪問して―

□中村先生の授業紹介


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□研究室 : 文系センター棟7階 718号室

□専門分野 : 中国哲学 (→哲学って?)

□現在の研究テーマ :中国出土文献による聖賢故事と経書の研究

□教育研究活動
 主に中国古代(春秋戦国、秦漢代)の思想について、近年新たに発見された出土文献(竹や木の札に記された文献)を用いて研究しています。中国古代の聖王・賢人の故事や『書経』『詩経』などの経書の形成・変容から、朱子学・陽明学を通してそれらが日本漢学へ及ぼした思想的影響についても興味を持って検討しています。これらの内容を取りまとめた近著には、次の書籍があります。
・『概説中国思想史』(共著、ミネルヴァ書房、2010年)
・『名言で読み解く中国の思想家』(共著、ミネルヴァ書房、2012年)
・『戦国秦漢簡牘の思想史的研究』(単著、大阪大学出版、2015年)
・『テーマで読み解く中国の文化』(共著、ミネルヴァ書房、2016年)

□担当科目(2017年度):
倫理学A・B、アジアの思想Ⅱ、アジア宗教文化論Ⅱ、文化学基礎論、文化学演習 ⅢⅣ・ⅤⅥ


□提供できる模擬講義
「諸子百家の思想」
「中国古代思想と新出土文献」
「故事成語の起源」
「中国の文字と書物」    など


□受験生へのメッセージ:
 中国古代史は、近年、相次ぐ史料の発見により、定説が見直される事態が次々と巻き起こっています。徳論や性説など、これまで信じられてきた認識・概念を再検討する臨場感を、ともに味わってみませんか。


□卒業論文について:
 中国古代思想に限らず、朱子学や陽明学、日本漢学についても基本的な指導は可能かと思います。道教や書誌学・漢字学など、とにかく漢文資料が扱いたいという方はご相談ください。

2017年4月7日金曜日

平成29年度 新入生指導懇談会(対面式)

 4月6日(木)、文化学科新入生と学科教員の対面式が行われました。

 今年度の新入生は転科生を含めて103名。教員も新任の先生4名をお迎えし、フレッシュな顔ぶれとなりました。

 林誓雄先生による司会進行のもと、学科主任の浦上雅司先生から歓迎の辞が述べられ、続いて教員紹介が行われました。その後、新入生ひとりひとりが自己紹介をしました。今年は「話しかけてください」アピールがやや多い印象でしたが、好きな音楽や得意なことなど、はきはきと話してくれた新入生もいて、あっという間の1時間でした。

 これからの4年間がクリエイティブで実り多いものとなることを期待しています。


2017年4月5日水曜日

平成29年度 文化学科ガイダンスゼミナールのお知らせ


4月15日(土曜日)に福岡大学中央図書館多目的ホールにて、新入生を対象とするガイダンスゼミナールが開催されます。

 このゼミナールは文化学科の新入生に、自分たちがこれからの4年間、「文化学科で何を、いかに学ぶか」を実際に体感してもらうための催しです。

 今回のテーマは「文化学科で考える<環境と人間>」です。このテーマについて、最初に2人の先生方が異なる角度から講義をします。その後、先生方から出された課題に、新入生がグループに分かれて取り組みます。最後に、各グループの成果を発表してもらい、参加者全員で議論します。

 当日は、必ず学生証筆記用具を持参して下さい。

 終了後には新入生歓迎会が行われます。





日時 2017年4月15日(土)9:00-17:30(8:50開場)
会場 福岡大学中央図書館1階多目的ホール

午前の部
 09:00 開会、趣旨説明
 09:10 講義① 林誓雄先生「地球なんて捨てて宇宙へ行こう!?‐環境問題を哲学する」
 09:45 講義② 藤村健一先生「自然環境と地域性‐県民性研究・風土論・地誌学の視点」
 10:20 グループ作業に関する説明
 (休憩10分)
 10:35 グループ作業①=課題をめぐる調査、議論、発表準備
 (適宜昼休み)

午後の部
 12:30 グループ作業②=課題をめぐる調査、議論、発表準備
 14:30 グループ別発表① 15分(発表10分、質疑応答5分)×4グループ
 (休憩15分)
 15:45 グループ別発表② 15分(発表10分、質疑応答5分)×4グループ
 16:45 全体討論
 17:30 閉会

 18:00 新入生歓迎会(文系センター棟16階スカイラウンジ)〈会費=1,000円〉



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2017年3月30日木曜日

恋とはどういうものかしら?(宮野真生子先生)

教員記事をお届けします。2016年度第14回目は哲学の宮野真生子先生です。


恋とはどういうものかしら? 

宮野真生子(哲学)

 すこし前、学生さんとお酒を飲みながら、恋人ができたという報告を受けた。ちょっと恥ずかしそうにしている学生さんを相手に、年甲斐もなく、「相手は?」「どうやって知り合ったの?」などと思わず質問攻めにしてしまい(ごめんなさい・・・)、でも学生さんは「いや、じつはけっこう前から好きで・・・」「でも、なかなか言えなくて」と恥ずかしそうに答えてくれた。それを聞いて、私はさらに年甲斐もなく、「わー、恋だねぇ、いいねぇ」と羨ましがってしまったのだった。


 「恋がしたい!」というフレーズはわりと頻繁に耳にする。だが、そういうときに求められている「恋」の体験は一様ではないと思われる。「恋って素敵!」といっても、そこで想定されている「恋」の魅力は色々あるということだ。

 まずは、恋人になるずっと手前、たとえば合コンやあるいはバーや居酒屋で隣に座った人と、何も知らないまま話し始め、「あれ、この人なんかいいかも」と感じる瞬間。言ってみれば、出会いの感覚、何かが始まる予兆へのドキドキである。次はもう少し進んだ段階で、まだ付き合ってはいないけれど、明らかに相手も自分に関心があるし、これはいけるかもと思いながら距離を測りつつ近づいていくプロセス。ちょっと露悪的にいうと「恋のかけひき」を楽しんでいるとき。そして、ようやく恋の成就。つまり、相手と想いが通じ合い、相思相愛になるとき。それは、相手に想いが届いたという喜びと同時に、相手から愛され、「あなたじゃないとダメ」と自分の唯一性が認められたことの満足感だろう(こうした唯一性の感覚を「確固としたもの」として手元に置いておきたいと思うからこそ、人は恋の相手を束縛し、嫉妬に駆られる。そして、そんなふうに束縛し嫉妬する自分を嫌悪し、そういう自分は愛されないかもしれない、と脅えて、自分から愛されることの満足感を削り取っていく)。

 私が「恋っていいな」と思うのは、とくに出会いとかけひきのプロセスに関してである(じつは唯一性の承認は、恋人以外でも手に入るので)。恋を分析するなんて、色気のカケラもない野暮の極みだが、こういうことを言語化したいと思うのが哲学をやる者のいけないところだ。でも、すこし考えてみよう。

 合コンやバーでたまたま知り合った人と話をする。こういうとき、とりあえず簡単に自分について(あるいは自分が考えていることについて)話すことがあるだろう。どういう仕事をしているのか、何が好きなのか、最近どんなことが面白かったか・・・など。それは社交辞令的で、とてもありふれた会話のように思えるけれど、じつは、私たちは自分が何者であるか/自分は何を考えているか、ということをイチから語る場面に出くわすことはそんなにない。もちろん、日々私たちは多くの人に出会い、様々な形で関わっているけれど、友だち同士だと、すでにある程度、お互いの情報が共有されているところから会話は始まるし(とくに最近ではSNSで事前に相手の状況を知っていることが多いので、会話が始まる時点で前提されている内容が多い)、他方、全然知らない人と関わる場面では、たとえば、駅に忘れ物をして駅員さんに問い合わせをしてお話したところで、それは、駅員さんとお客さんという関係のなかで関わっているだけで、その駅員さんがどんな人なのか、何を考えているのか、なんていうことに思いをはせることはない。

  しかし、合コンや、酒の場でたまたま一緒になった人とはそうはいかない。「私は何者なのか」「何を考えているのか」ということから説明する必要がある。とくに、合コンとは違って、酒の場でたまたま会話をかわした人との関係は難しい。いわゆる、酒場の会話の一つの特徴として、その場限りで流れていく良さというのがあり、その意味で、酒場で「私は何者か」について詳しく喋るのは、むしろ野暮の極みである。もちろん、相手にたいし、「あなたは何者か」と根掘り葉掘り尋ねるのも野暮というものだ。しかし一方で、そうすると、知らない者同士が並ぶ酒場のカウンターでは、会話のとっかかりというものがない。(もちろん、だから一人で静かに飲む、というのもそれはそれで心地良い)。相手がどういう考えの人で、どのような背景をもっているのか、そういうことがわからない。そのなかで、何かの拍子に(良いバーテンダーさんというのはそういう拍子をとるのがうまい)、会話が始まる。手探りでそろりそろり。だけど、相手が知らない人だからといって、当たり障りのない話だけしていても、会話は弾まない。だから、様子を見つつ、自分の思っていることをぽつりぽつりと話してみる。それに対する相手の反応を見つつ、あるいは、相手の話す言葉を捉えつつ、酒場で出会ったそのとき限りの二人が「自分」だけを手札に会話することになる。だからこそ、酒場での会話には、本音がぽろりと漏れることがあるし、そんなとき意図せず人は無防備な状態になってしまったりする。そういう無防備な状態で、「すごくわかります」などと理解を示されてしまったりすると、思わず「おっ」となってしまうことがある。
 
たぶん、それは合コンでも同じことで、要は自分をある程度晒さねばならないところで、思わず、自分の弱いところ、プライベートな感覚を晒してしまうことがあって、多くの場合は、そういうふとした瞬間は見逃されてしまうのだけれど、時々、そこにスルリと入って来る人がいる。そうすると、なにせ元が無防備な状態なので、こちらは驚いてしまう。その驚きは、心を動かすことがある。その動いた、という感覚。それは恋というにはまったく及ばない。あるいは単なる動揺のままの場合もある。けれど、その驚きや動揺は、安定した日常に小さな風穴を開けるだろうし、その風穴から吹く風に何かが始まる予兆を感じ取ることができる(ただし、この風に乗るか乗らないかは自分次第だ)。結局のところ、「恋がしたい」という呟きは、日常を覆うベールを壊したい、あるいは、様々な前提に隠された自分を引き出したい、それに触れてもらいたいという、ある種の自己破壊的な願望なのかもしれない。

 そして、恋は進みはじめる。恋のかけひきも自己破壊的な側面をもつものなのだが、その話はまたいずれ。



□宮野先生のブログ記事
ここにいることの不思議
文化学基礎論
死と生をめぐる合同ゼミ
『愛・性・家族の哲学』が出版されました

□宮野先生の授業紹介
文化学基礎論潜入記
宮野ゼミ×林ゼミ「死と不死」
宮野ゼミ合宿記

2017年3月23日木曜日

2016年度ゼミ研修報告

 今年度13回目の学生記事をお届けします。12回目に引き続き、文化学科4年生の植田舞香さんが昨年11月に行われた、ゼミ研修旅行について報告してくれました。


2016年度 ゼミ研修報告
LC13台 植田舞香

 2016年11月4日、穏やかな秋空のもとゼミ研修が実施された。もともと9月に予定されていたが、台風の影響により中止となり、あらためて11月の実施となった。

 午前9時、フタバ図書福大前店近くの福岡大学B校地を出発、山口県美祢市の秋吉台・秋芳洞(あきよしだい・あきよしどう)に向かう。途中、関門橋上り線のめかりパーキングエリアで休憩する。建物の屋上からは関門海峡を眺望できる。休憩を終え、お昼前に秋吉台・秋芳洞に到着をする。駐車場近くの食堂で昼御飯を食べ、秋芳洞へ向かう。

 石灰岩のような可溶性の岩石からなる地域では、雨水や地下水による溶食作用の結果、特殊な地形が形成されるが、この地形が最も早く研究されたスロベニアの石灰岩地域の名をとって、カルスト地形と呼ばれているが、秋吉台・秋芳洞はその代表例である。ここでは、地下では鍾乳洞、地上ではカレンフェルトなどの特徴的な地形が広がっている。

 秋芳洞の奥行は約9kmであるが、そのうちの約1kmが見学可能である。秋芳洞の中に入ろうとした我々を最初に出迎えてくれたのは、宝石のように美しく水色に輝いて地上に出現した地下水と、ぽっかりと開いた巨大な洞への入口であった。その景色に感嘆しつ洞内へ足を踏み入れて行くと、そこにはとてつもなく広大な空間が広がっていた。洞内すべてが見どころ満載であるが、なかでも「百枚皿」は、階段状になった多くの石灰岩の皿に水が蓄えられた特殊な地形であり、また、高さ15m、幅4mの巨大な石灰華柱である「黄金柱、こがねばしら」は圧巻であった。洞内の天井から流れ落ちる地下水が壁を伝い、その部分へ石灰分が付着し、何万年もの年月をかけて築き上げられた。一滴一滴の水が静かに、また確実に積み上げてきたものの大きさを物語る姿をしていた。秋芳洞にあるすべてが非日常的で幻想的であり、日頃の喧騒を忘れさせてくれるものであった。

 自然の営みの雄大さに触れた後、福岡県苅田町の日産自動車九州(株)の工場に向かう。日産自動車九州(株)は1975年の創業から今年で41年目を迎えた。年間約53万台の生産能力をもち、工場敷地内の専用埠頭からは国内外の顧客に車が出荷されている。生産されている車は自家用車である。

 ゲストホールに到着すると、多くの小学生たちであふれ、展示してある車に乗って大はしゃぎであった。工場内見学の前に日産自動車(株)の最高経営責任者であるカルロス ゴーン氏の挨拶ビデオを見る。ビデオを見た後、広報担当者に案内をされて工場内を見学する。自動車業界は技術力を競っており、工場内での撮影は禁止であった。

 車の生産は顧客からの受注生産であり、したがって生産ラインには同じ車であっても座席が異なる、車体の色が違うなど、多様な車が並んでいた。また、車の組み立てにおいてはコンピュータ制御のロボットが活躍していた。一方で、人の手による仕事が求められる繊細な部分も多く存在していた。そこでは従業員の方が効率よく正確に作業できるように道具箱の位置や中身を調整するなど、多くの工夫がみられた。工場の外では自動運転の車両が建物から建物へ部品を運んでいた。

 日産自動車(株)のテレビ広告に、歌手の矢沢永吉氏による「やっちゃえNISSAN」がある。この広告は「人々の生活を豊かに」というビジョンのもとに、現在さらに将来にわたる自動車生産の取り組みを象徴したものである。具体的には、従来、日産自動車(株)は「技術の日産」といわれてきたが、新技術の開発に果敢に挑戦して、「走行中の排気ガスを無くす」「日産車による死亡重傷事故を無くす」という目標を掲げているのである。そして自動運転技術を2020年までに段階的に導入することを宣言して取り組んでいるのである。

 現代の日本において車はあまりにも当たり前のものとなっているが、その裏には様々な努力があるということを工場見学を行って改めて知ることができた。その努力があるからこそ、車の技術は日々進化しているのだろうし、その結果として私たちの生活もより豊かになっているのだと感じた。

 工場見学を終えて、大学への帰途についたが、今回のゼミ研修では、自然の壮大さと人間の技術の偉大さに痛感させられた。


2017年3月19日日曜日

平成28年度 福岡大学人文学部 文化学科 学位記授与式が挙行されました

 平成29年3月19日、平成28年度福岡大学人文学部文化学科の学位記授与式が挙行されました。その模様をお届けいたします。
 学科主任の平兮先生より、学科の卒業生全員一人一人に学位記が授与されました。
 ご卒業されたみなさま、本当におめでとうございます。卒業生を支えて下さったすべての方々に心よりお礼を申し上げます。
 夜には会場を移して卒業記念パーティが行われました。
 卒業生のみなさんの将来が、希望と幸福に満ちたものでありますように。