2017年6月15日木曜日

中国社会に溶け込むムスリム・回民 ―異文化の接触地帯4―(磯田則彦先生)

 平成29年度第5回目の「教員記事」をお届けします。地理学の磯田則彦先生です。「異文化の接触地帯」をテーマに毎年ご寄稿いただいています。今年はその第4回目になります。



中国社会に溶け込むムスリム・回民
―異文化の接触地帯4―

   
     磯田則彦(地理学

 こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。

 まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフステージの要所要所で移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」。以前から、そんなことが気になってしまいます。

 また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。

 次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行う中で身近になってきた分野と言えるかもしれません。過去3回、私のフィールドの中から「インナーモンゴリア」と香港についてご紹介してまいりましたが、今回は中国に暮らすムスリム・回民についてご紹介いたします。

 「回民」(フイミン)と聞いて皆さんはどのような人々を想像しますか?「民」という文字が付いていますから何らかの民族あるいは社会集団のようなものをイメージされたのではないでしょうか?あるいは、中国に関心のある方でしたら、標題からイスラム教徒の「回族」(フイズー)のことではないかと考えたのではないでしょうか?「回民」とは、イスラームとそれにもとづく生活様式をベースとして、中国に暮らす「さまざまな出自の人々」を指します。同国北西部を中心に居住するウイグル族やキルギス族などのムスリムや、中東などから来ているムスリムとは基本的に異なるところが多々あります。彼らは、容姿も一般的な中国人とほとんど変わらず(白い帽子等を除く)、中国語を母語とし、漢族社会に溶け込んだ暮らしをしています。古代以降、いわゆる「海の道」・「草原の道」・「オアシス(絹)の道」を通って現在の中国に辿り着き、定住した人々の子孫です。その過程では混血が進みました。彼らの暮らしはとても穏やかなものです。では、具体的にどのような生活スタイルなのでしょうか?

 前述のとおり、回民の生活の中心にはイスラームがあります。彼らのコミュニティには必ずモスク(マスジッド)が存在します。中国語ではこれを「清真寺」(チンジェンスー)と呼びます。規模の大きなものは文字通り、「大清真寺」と呼ばれます。地域差こそありますが、国内のいたるところ(さまざまな地域)にこれらが見られます。清真寺は神聖なる、祈りをささげる場所であり、まさしく彼らの心の拠り所です。今では、真新しい電光掲示板により日々変化する祈りの時間が示されます。礼拝を告げる合図とともに今日も回民が清真寺に集まってきます。


 イスラームの教えにもとづく回民の生活には、アラビア語のクルアーンを読むことや食物禁忌(フードタブー)を守ることなど、世界のムスリムが日々実践していることが多数含まれています。後者の関係で回民の生業には飲食店経営が多く見られます。「清真」と書かれた看板は、イスラームの教えによる食品の提供を行っている店を表しており、国内のほとんどの都市においてしばしばそれを目にする機会があります。羊肉や牛肉を用いた料理や酒類を提供しないところに特徴があります。

 彼らのアイデンティティは、「ムスリムであり、中国人である」という点に要約されます。私は各地を旅しながら、千年以上に及ぶ彼らの長い道のりを考えるとき、悠久の昔に思いを馳せるとともに、異なる文化をその懐深くに受け入れてきた同国の寛大さ、力強さに深い感銘を覚えます。数千年に及ぶ中原(ジョンユァン)の文化は、異質なものを拒み受け入れず、遠ざけるのではなく、そばに置き寄り添い、受容して共生を図る。それでいて自身のアイデンティティや文化的背景については、決して他者に屈することはない。私がかの地を訪れ、その大地に身を置く時に感じる「何か吸い込まれていくような、溶け込んでいくような、何とも言いようのない感覚」は、実際、同じところからきているのかもしれません。

□磯田先生のブログ記事

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