2017年6月24日土曜日

LC哲学カフェ開催:愛情の搾取?――『逃げ恥』から考える家族

すっかり報告が遅くなってしまいましたが、6月12日(月)の夕方、今年度第二回目のLC哲学カフェが開催されました。

前回のビブリオバトルから一転、今回は通常の哲学カフェ形式。参加者は学生諸氏や卒業生などが約10名、教員が2名。懐かしい顔を交えつつ、宮野真生子先生が進行役となって、議論がスタート。

今回の素材は、海野つなみのマンガ、『逃げるは恥だが役に立つ』。カフェのタイトルにある「愛情の搾取」という言葉はドラマ版にのみ登場するもので、原作では「やりがいの搾取」。お金を払わずに「好きな人の面倒を見るのがやりがいでしょ」と言って家事労働をさせるのは「やりがいの搾取」なので、ちゃんとお給料を払うべき……?


家事には終わりがない、どこまでやったらよいかの基準が難しい、などの話も飛び交いつつ、議論のメインは家族の問題へ。「家族」という言葉でイメージするものは? 厄介、切っても切れない、温かい……?

子供がいる/いないが家族の基準? いや、今や「ファミリー」という言葉は、親子の関係だけを表すものではない。あるファンたちのサークルが「ファミリー」と呼ばれることもある。ファン同士の強い絆もまた家族? ただし、このサークルからは簡単に抜けられるが、血縁関係の家族から抜けるのは難しい……。

自分の親のいる実家と、自分の子供のいる家族との区別。二つを合わせて一つの家族ではなく、二つの家族を持っている、という感覚。ところで、ペットは家族? 家族。知っていることが増えていくたびに、どんどん家族になっていく、という感覚。

結婚せずに独りでいるのはよい、悪い? 他者との関係性に巻きこまれること、不自由であることの重要性……? しかし、やはり独りは快適。20年後には、結婚することが当たり前でなくなる? あるいは、極端な二極化? 地域による違い、「家」意識の有無、家族経営で仕事をしている場合、等々。

家族と家庭は違う? パートナーや子供と一緒に暮らしている場が家庭で、離れてもつながっているのが家族? 子供が生まれることで、家族から家庭へ? 子供に限らず、一緒に何かを育てることで、パートナーとの関係が変わる? 小学校のクラスでうさぎを育てる経験や、仲間と一緒にアート作品を作り上げる経験もまた、何らかの家族/家庭を生み出す……?

では、どの時点から家族になるのか。夫婦二人だけではまだ家族ではない? 親一人と子一人でも、二人だけでは家族の「族」という感じに欠ける? 人数にかかわらず、長い時間と経験を共有することで家族になる? つまり、何かを共有していることが必要……?


その他、一般的な家族のイメージ、福山雅治主演の映画や歌の歌詞、「家庭的」という言葉が男性について言われる場合と女性について言われる場合との違い、「お財布一緒」問題、等々について議論。話が収束する気配の全く見られないまま、チャイムと共に強制的に終了。しかし終了後の教室でも、しばらく立ち話が続いたのでした。

私が今回感じたのは、家族については個々人のイメージがかなり固定されていて、なかなか自分の家族観から距離をとることができない、ということでした。それは決して悪いことではないにせよ、もしあえて距離をとって客観的に考えてみようとするならば、例えば、映画や小説、マンガやアニメ、音楽の歌詞などに見られる家族像を分析してみる、という手段が有効かもしれません。すでに多くの先行研究もありそうですが、ぜひ、誰かチャレンジを。

さて、次回は7月10日(月)の開催です。今まで扱ったことのないテーマを扱ってみる予定。詳細については、このブログ上の告知記事を参照して下さい。

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