2015年9月28日月曜日

講演会のお知らせ(平井靖史先生)

 今週の金曜日10月2日、福岡市天神のアクロス福岡にて、当学科の教員である平井靖史先生による講演会が開催されます。
 山口大学時間学研究所主催の「時間学アフタヌーンセミナー in 福岡」という企画の一貫で、ご自身の専門である「時間の哲学」についてお話をされます。対象は市民一般で、入場無料(予約不要)ですので、ふるってご来場下さい。


日時:2015年10月2日(金)、14:00〜16:00
場所:アクロス福岡 円形ホール(福岡市中央区天神一丁目1−1)
対象者:市民一般
題目:こころは過去で出来ている——現代時間論から見る心の哲学
講師:平井靖史(福岡大学人文学部文化学科教授)
主催:山口大学時間学研究所
共催:公益財団法人 山口大学講演財団、日本時間学会
後援:福岡市教育委員会
問い合わせ:山口大学時間学研究所 tel 083-933-5848

詳細は以下のチラシをご覧下さい。


2015年9月24日木曜日

平成27年 卒業論文相談会が開催されました

 9月18日に3年生を対象にした卒業論文相談会を開催いたしました。この合同説明会では、卒業論文のテーマや方向性をある程度固めた、あるいは書くことに迷っている3年生たちが、文化学科の教員と個別に相談することができます。今年も例年同様多くの3年生が参加し盛況でした。約一年後、どんな個性豊かな卒業論文たちが仕上がってくるのでしょう、いまから楽しみですね。

2015年9月21日月曜日

宮野ゼミ合宿記(LC12 井上拓海くん)

 今年度10回目の学生記事をお届けします。現4年生の井上拓海くんが、今月初旬に山口県で行われた宮野ゼミ合宿の報告を寄せてくれました。


宮野ゼミ合宿記


  9月のある雨のよく降る朝、宮野ゼミの学生と先生を乗せたバスは九州を出て本州に向かいます。山口市内に向かうのです。九州を出て、ちょうど下関市に着いたころには雨は上がっていました。

 下関についたころにはもう正午でしたから、お腹を空かせた宮野ゼミ一行は唐戸市場の定食屋に向かいます。僕たちは山口名物ふぐの定食など、おいしい海鮮料理を食べたり、宮野先生においしいアイスやコーヒーをご馳走になったり、午後の哲学の勉強会に備えてエネルギーを蓄えました。
西田旧宅にて

 午後になり、僕たちは下関市から山口市内へと移動しました。勉強会は近代日本の哲学者である西田幾多郎が住んでいた家で行いました。僕は昨年、宮野先生の「日本の思想」という受講し、西田の哲学に深い感銘を受けていましたので、その講義の中で扱われた哲学者の西田幾多郎の家に入れるというだけで心躍る気持ちでした。

 西田幾多郎の家、そこは予想通り古い家でした。狭い玄関、古い急な階段、古い座敷、古い書物….。西田幾多郎の幽霊でも出てきそうな…。まぁとにかく雰囲気は十分です。この合宿に向けてゼミ生は西田幾多郎著の「善の研究」の1つの章を読んで、1枚のレポートにわかったこと、わからなかったことをまとめて来ました。この勉強会では西田幾多郎が「善の研究」の第二章の言わんとすることをみんなで話し合いながら理解する、ということでした。勉強会が始まると、ゼミ生は西田幾多郎の真似をして丸メガネをかけてテキストを片手に、あーでもない、こうでもないと議論をしました。不思議なことに、ゼミ生や先生と議論をすることによって、1人で「善の研究」を読んでいた時よりも、西田幾多郎の思想をよく理解できました。そして知的興奮を味わいました。あっという間に3時間が経ちました。みんなと哲学についていろいろと考えたり、議論をするのはとても楽しかったです。哲学をする前と後では少し世界が違って見える体験をこの日もできたような気がします。

 話は少しズレますが、僕が大学に入って、哲学に出会えたことは人生の快事だと思っています。固い価値観が壊され、世界がまるで違って見え、心が震える。以前よりも少しだけ生きやすくなる。呼吸がしやすくなる。こんなにも世界は広いんだと。
 
 哲学勉強会が終わり、宮野ゼミ一行は宿泊先に向かいます。あとはもう遊びです(笑)宮野ゼミは遊びと勉強のメリハリがしっかりとしているので(笑)
 
 夜になると、旅館で、温かい温泉に入り、おいしい食事を食べ、宴会場で旅館の名物女将が毎日上演する女将劇場をみんなで観に行ったりしました(僕は女将に連れられ舞台に上がって踊りました、大盛況?でした)夜が深くなってくるとくだらない話や、お年頃の学生の恋の話等で盛り上がりながらゼミ生や先生と飲むお酒はとても美味しかったです。

 翌日は、山口観光です。中原中也記念館、秋芳洞、秋吉台に行き、精一杯遊びました。最後は歩いて本州から九州へ帰ります。歩くと言っても関門海峡の海底トンネルを歩いて九州に入るだけです(笑)
秋芳洞にて

LC12台 井上拓海

2015年9月17日木曜日

I like Music or I love Music ?(小林信行先生)

「教員記事」をお届けします。本年度第九回は古代哲学の小林信行先生です。



  I like Music or I love Music ?         

 新学期に新しいゼミのメンバーが顔合わせをする時、互いに簡単な自己紹介をすることがあると思う。あたりさわりのない紹介の一つに、私の趣味は音楽を聴くことです、というものがある。たしかにキャンパスでも街角でもイヤホンをつけたまま歩いている人は多い。もちろん音楽だけではなく、語学の勉強だとか、ラジオ放送の場合もあるだろうが、やはり音楽が一般的だろう。だからこそ音楽好きを自称することは、自分を主張するときよりも人々に紛れて自分を隠すことに向いている。

photo by y. hirai
では自己主張的な音楽好きとはどのような人たちだろうか。かれらはいったいどんな聴き方をしているのだろうか。自分でも移動の際に何回かイヤホンをつけて音楽を聴いてみたことがある。しかし、どうも聴いた気がしない。何よりも、危なくて仕方ない。何かにぶつかりそうになったり、地下鉄を乗り過ごしそうになったり。イヤホンにしろヘッドホンにしろ、周囲から隔絶された状態が作り出されているのでつい音楽に集中してしまい、今ここが何処なのか、そもそも自分が何をしていたのかさえ忘れてしまう。そうかといって、周囲に注意しながら聴いていると、実際には音楽なんて断片的な雑音に近くなってしまい、仕舞いには音が聞こえてくること自体が煩わしくなる。だから自分は音楽好きなのだと自覚している。

 今となってはずいぶん昔の話だが、ソニーが携帯プレーヤーを世界的にヒットさせたとき、猿がイヤホンをつけて音楽に陶然と聴き入っているようなコマーシャルがTVで流れていた(YouTubeに動画あり)。あっ、自分もこの猿といっしょだ、といささか複雑な気持ちになったが、音楽好きに人間も動物もないと主張しているようなCMに感心させられた。また、ある学生が家では毎日スピーカーに頭を突っ込んでいますという話をしたときにも、またCD店で買い物をして “No Music, No Life.” とプリントされたシールをおまけにもらったときにも、それなりに感心したことがある。つまり何を言いたいかといえば、音楽を聴いていることがその時は生のすべてであり、また後から考えれば生の一部となるような時間をもつことのできる人間は音楽好きと言えるのではないか、ということなのだ(ただし猿に人生はないだろうが)。

 他方でBGMを好む人たちもいる。なんとなく音楽を流している場合もあるだろうし、何か仕事をしながら流している場合もあるだろう。それは環境の一部となった音楽(聴覚)であり、そこでの気温や湿度(触覚)や光(視覚)などと一体になってかれらに心地よい状態を作り出しているように思われる。おそらくその環境が何となくぼんやりさせてくれたりあるいは仕事に専念させてくれるから音楽も要素の一つとして加えられているのであろうが、もしそうだとすれば音楽は生そのものではなく、調味料の一種のようになっているのではないか。もちろん、調味料でも重要なものは重要だという言い方も可能であるし、調味料ひとつで料理がすっかり変わってしまうこともあるだろう。しかしBGMの場合、その環境下でなされる仕事の方にその人の生があるのではないだろうか。哲学的には、環境的なものは生の副原因であると見なされうる。


 音楽についてこんな面倒なことを考えるよりも、もっと気楽に音を楽しめばいいのではないか、という声も聞こえてきそうだ。しかし音楽にかぎらず、誰にでもつきまとう好みや愛好はどこかでその人をかたち作っているわけあり、そのよう好みや愛好に自分がどのようにかかわっているかを振り返るだけでも、思いがけない自己発見につながるように思われる。就活の時期が来てあわてて自分さがしに奔走しないためにも、日頃から自分が何を好きなのか、何故好きなのかを気にしてみてはどうだろうか。その答えもそれとのかかわり方も、自分自身で見つける以外にない点が重要なのだけれど。


2015年9月7日月曜日

最近の研究について(岸根敏幸先生)

「教員記事」をお届けします。本年度第八回は神話学・宗教学の岸根敏幸先生です。



  わたしが担当する今回の教員記事では、最近、取り組んでいる研究について紹介したいと思います。それは『古事記』と『日本書紀』の神話を比較研究するというものです。

 一般に「日本神話」と言いますと、『古事記』や『日本書紀』の最初の部分にある神話(以下では、それぞれを「古事記神話」「日本書紀神話」と呼びます)をイメージする人が多いと思いますが、そのほかにも、地域の伝承を記している『風土記』、特定の氏族の伝承を記している『古語拾遺』『出雲国造神賀詞』、神に対して奏上する文章である「祝詞」、さらに日本各地にある神社創建の由来を記している「御由緒」などにも神話的な記述が含まれている場合があります。その意味で、日本神話は実に多様であると言えるでしょう。

 とは言うものの、天(あめ)と地(つち)が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでを、壮大なスケールで描いている点で、古事記神話と日本書紀神話が他の神話を圧倒していることは疑いようのない事実であり、この二つの神話が「記紀神話」と総称されて、日本神話を代表するものとして位置づけられてきたわけです。

 しかし、この古事記神話と日本書紀神話ですが、それぞれの記述を比較してみると、実に多くの違いが見られます。そのことに触れるまえに、まず日本書紀神話に見られる特異な構成について話しておく必要があります。

 日本書紀神話は二本立てになっていて、編纂者が正式に認める神話(以下では、これを「本文神話」と呼びます)と、それ以外の神話(以下では、これを「別伝神話」と呼びます)から成り立っています。そして、日本書紀神話を構成する全11段のそれぞれで、本文神話のあとに別伝神話が付随するという形をとっているのです。なお、各段にある別伝神話が一つとは限りません。たとえば第五段には実に11種類もの別伝神話が付随しています。分量的に見ても、別伝神話は日本書紀神話全体の75パーセントも占めているのです(漢字の数から概算)。本文神話と別伝神話は基本的に内容が異なっており(同じであれば、わざわざ別伝神話として記載する必要はないですから)、また、別伝神話どうしでも様々な違いが見られます。

 日本書紀神話はなぜこのような構成になっているのでしょうか。その編纂作業は、総裁である舎人親王(天武天皇の皇子)と当時の学者たちが、様々なルートを通じて収集した神話を取捨選択するという形でおこなったと推測されますが、なんらかの理由によって――たとえば学者的な良心とか、特定の神を記録から抹消してしまうことに対する罪悪感、あるいは、祟りへの恐れとか――、正式には採用しなかった神話にもそれ相応の価値を認め、保持しようとする意図がはたらいたという可能性も考えられるでしょう。

 このような事情があるので、日本書紀神話の特色について厳密に考えようとする場合、編纂者が正式に認めている本文神話だけを対象にしなければなりません。たとえ日本書紀神話のなかに含まれていても、別伝神話は編纂者が正式に認めている神話ではないのです。それを混ぜ合わせて捉えようとすると、日本書紀神話を編纂した人たちの意図を見誤ることになるでしょう。この点に関して一例をあげるならば、死に関わる黄泉つ国という世界は別伝神話に出てくるだけで、本文神話にはまったく登場しません。つまり、『日本書紀』の編纂者は黄泉つ国を正式には認めなかったのです。したがって、「『日本書紀』の神話に登場する黄泉つ国」というような表現には十分注意する必要があるでしょう。

 さて、元に戻って、古事記神話と日本書紀神話――特に本文神話――を比較してみますと、前述のように、天と地が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでという神話全体の進行はほぼ同じなのですが、記述の全般にわたって様々な違いが見られます。大本が同じなのだから、そのような違いは枝葉末節の問題であると思うかもしれませんが、その違いのなかには、たとえば「高天原」という天上の世界をどう位置づけるか(日本書紀神話は高天原という世界を正式には認めていないと指摘する先行研究もあります)、アマテラスとタカミムスヒのどちらを皇祖神(天皇家の先祖神)と位置づけるか、スサノヲという神をどのように捉えるか、オホナムヂと出雲神話をどのように位置づけるかなどのように、日本神話の根幹に関わるような違いも見られるのです。

 わたしはこの二つの神話を、似てはいるが、まったく別の独立した神話として捉えるべきであると考えています。その点から見ますと、前述した「記紀神話」のように、古事記神話と日本書紀神話の記述を混ぜ合わせるような捉え方では、古事記神話と日本書紀神話の違いを矮小化してしまい、それぞれの神話の特色を見失わせてしまう危険性があるでしょう。さらに、そのような捉え方をするかぎり、一見、同じように見える二つの神話が、おそらくそれほど離れてはいない時期に相次いで成立し、そのあとも併存し続けているという謎は永久に解明されないでしょう。

 ということで、数年ほど前から、古事記神話と日本書紀本文神話の記述を徹底的に比較して、一致する点や異なる点を調べ、それらをもとに、それぞれの神話のもつ特色を明らかにしてゆくという研究を行っています。その研究成果は来年に一冊の書物としてまとめる予定です。

 最後に一言。わたしは元々、日本神話の研究者ではなかったのですが、いつの間にか日本神話の面白さに取りつかれて、今日に至っています。講義、ゼミ、卒論指導などを通じて、その面白さを伝えることができればと思っています。

2015年9月2日水曜日

おいでよ!文化学科☆ その二(LC12 小倉望未さん)

小倉望未さんによるオープンキャンパスの記事、続きです。



以下、私がされた質問とそれに対しての私の答えを幾つか載せておきますので、今回オープンキャンパスに来られなかった方も参考にしていただけたらと思います。

また、文化学科に対しての質問等ありましたら、お気軽にこの記事のコメント欄にお寄せください。誠心誠意お返事を書かせていただきますので!単純な感想コメントもお待ちしています!

.文化学科はなにをするんですか?

.これはとても厄介な質問です。入学してからの4年間でその答えを探してください!と言いたい程厄介ですが、それではあまりに無責任なので、あくまで私の考えをお伝えします。

文化学科の特色は「幅広いことを学べる」ことです。文化学科には様々な分野の先生方がいらっしゃいます。心理学、社会学、美術史、人類学、哲学……その中でも更に細かく分かれているのです。

なので、文化学科に特に向いているのは、様々なことに興味を持てて、物事を色んな面から見たいと思ってる方かなと思います。まだ自分の将来の方向性が決まっていないので、様々なことが学べるこの学科で夢を見つけたいと入学する人も多いです。また、教員免許や学芸員の資格を取得できる課程を選択することも可能なので、学校や博物館で働きたいと思っている人にもお勧めです。哲学などの学問をするのは教育現場で働いていく上でとても貴重な経験になるかと思います。

文化学科では、たくさんの選択肢が用意されていますので、それをしっかりと自分のものにしていって欲しいと思います。選択肢が多いことは、一見可能性に満ち溢れているようにも思えますが、何も選べなかった、となる危険性も孕んでいます。文化学科は、人生の取捨選択を学ぶ場であるとも言えるかもしれませんね。

.大学では語学が勉強したいのですが……。

.そのように考えられている方はきっと福岡大学の人文学部が第一志望なのではないかと思います。人文学部には英語学科、フランス語学科、ドイツ語学科、東アジア言語学科と、語学・外国の文化を専門とした学科が多数あります。そちらに目を向けられている方にも是非とも文化学科も選択肢として考えていただきたいです。

文化学科では入学してからの2年間、英語と第二外国語(フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語)が必修となっています。なので、語学を学ぶ機会は十分確保されています。

一年生の英語は既にクラスが割り振られていますが、二年生に上がる前にテストを受け、その後は、TOEICコースや英会話コースなどに分かれて英語を学習することになります。また、三年生以降は必修ではない英語のプログラムが設けられているので、語学を続けたければそちらを選択することがベストです。短期留学を視野に入れたプログラムとなっていますので、より実用的な英語学習ができるかと思います。

また、福岡大学では昼休みの時間、曜日ごとに違った語学で留学生と交流を図るスペースが設けられていたり、留学生との英語合宿が夏休みに企画されたりと、語学を学べるイベントが多数行われているので、そういったものも有効に活用していただければと思います。

単に、語学を専門的に学ぶよりも、自分の興味のある学問について、世界中の人と議論を交わしたいと願っての学習の方が、より実りあるものになるのではないでしょうか。文化学科の先輩で、哲学を学ばれ、第二外国語でフランス語を選択していたことから、一年間、ベルギーの大学の哲学科に留学をされた方もいらっしゃいます。文化学科で語学を学ぶことは十分に可能なので、是非その方法について検討していただければと思います。

.将来メディア関係に進みたい!

.そのように将来の方向性が確定されている方には、文化学科はネタの宝庫かもしれません。

文化学科の講義の中には、メディアに関するものもあります。メディア関係の仕事に就いている卒業生の方や、目指している在学生も沢山います。

映像を作成しているサークルがあるので、そこでまず趣味として作品作りを始めるのも良いかもしれません。また、福岡のテレビ局・新聞社・映像制作会社がアルバイトの求人を行っていることもあるので、自分の興味のあるものには常にアンテナを張っておきましょう。やはり、就職活動のときに、経験として語れるのはとても有利だと思います。また、福岡大学では春と夏にインターンシップの募集を行っています。大学からの推薦で新聞社や映像制作会社へのインターンシップも出来ますので、積極的な参加をお勧めします。

小倉望未

おいでよ!文化学科☆ その一(LC12 小倉望未さん)

今年度の学生記事、第九弾をお届けします。
四年生の小倉望未さんが、オープンキャンパスについて書いてくれました。



こんにちは!四年生の小倉望未です。今回は先日開催されました福岡大学オープンキャンパスについての記事をお届けしたいと思います。

今年のオープンキャンパスは、福岡大学特製の顔ハメパネルが設置されていたり、受付のところにアドバルーンが浮いていたりと、大学としても、来年度新入生となる皆さんのことを歓迎したい!という気持ちが至る所に見られました。初めて訪れた方は誰もが驚かれるこの広いキャンパスの中で、どうにか自分たちの学科を知ってもらえる機会を作ろうと、各学科が趣向を凝らした展示や模擬講義を行っていて、それは、文化学科でずっと過ごしている私としましても新鮮で、スタッフとして働きつつも、ついつい他の学科の展示を盗み見する程でした。

そんな中で、贔屓目に見ずとも、文化学科のブースはとても充実した内容で、来てくださった多くの方々には、多少なりとも興味を持っていただけたのではないかと思っています。

展示物は、教員紹介や、授業で実際に配布されている資料、在校生の授業ノートや時間割の一例、過去の卒業論文や題目表、年間行事表、卒業生の進路紹介など、他にも授業や各イベント、飲み会での写真などで、教室中の壁や机が埋め尽くされていて、見応えたっぷりでした。勿論、常時、先生方とスタッフの在校生が在室し、教室に来られた方に文化学科を紹介したり、質問に答えたりと、展示だけでは伝わらない面も、よりよくお伝えすることが出来たのではないでしょうか。

なんとなく立ち寄ってくださった方が「文化学科いいですね!」と言ってくださったり、文化学科を志望している方が相談してくださったり、私の話や展示物から大学生活を想像し、「勉強頑張ります!」と言ってくださったのは、私の大好きな場所を誰かと共有できたようで嬉しく、また、今日お話しした皆さんがせっかく入学の日を迎えたとしても、もう私はここにはいないのかと、時が経つ早さを恨めしく感じもしました。なかなか高校生の皆さんとお話しする機会はないので、その溌剌とした姿にも、元気をもらいました。自分が20歳になる、法的に成人を迎える、という節目を迎える場所、そして多くの人にとって最後の学生生活を送る場所を今から決めようとしている皆さんと少しの間でしたが言葉を交わすことができて、なんだか初心に戻ったような気がします。私も、高校三年生の頃、福岡での新たなスタートを妄想しつつ、広いキャンパスを歩き回ったことがありました……あれはもう……四年も前のことなのですね……。

その二へ続く〕