2017年10月16日月曜日

エデンの園における死と永遠の命 -創世記二章四節B-3章24節の再検討-(LC15台 田中俊太朗さん)

 今年度10回目の学生記事をお届けします。LC15台の田中俊太朗さんが、6月7日に開催された、領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」の研究会への参加体験記を寄稿してくれました。



エデンの園における死と永遠の命

-創世記二章四節B-3章24節の再検討-

LC15台 田中俊太朗

 6月7日、A棟612号教室はジメジメとした梅雨の熱気とはまた別の、静かな情熱に包まれていました。何故なら、今年初の領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」による研究会が開かれていたからです。

 領域別研究チームとはその名の通り、先生方がそれぞれの研究分野に応じて作られた研究チームの事を指し、より深い研究へのきっかけとなる可能性を探る為、研究や関心事を持ち合い、討議や発表を通して交流する事を目的としています。

 そして今年初めての交流会が小笠原史樹先生の研究をテーマとして行われたのでした。

 皆さんは旧約聖書を読んだ事があるでしょうか?日本では余り馴染無いこの書は、キリスト教圏であるヨーロッパでは、重要な書物として西洋文化圏で1,2を争うほど有名なものです。そんな重要な本である旧約聖書は「創世期」という物語から始まります。世界を7日間で作った唯一神が、罪を犯した人間を楽園から追放するお話……それが創世期のあらすじです。

 今回小笠原先生が着目したのは、そんな創世期の中で「エデンの物語」と呼ばれる部分……蛇に騙された人間が禁断の果実を食べ、楽園を追放される……の謎に迫ったものです。

 エデンの物語に隠された「謎」、それは「どの様な死生観によって人は死ぬ定めになったのか」というものです。

 神が何故アダムを楽園から追放したのか、という疑問には2つの答えが比較的簡単に、矛盾しない領域で出ます。

 1つはアダムが神の命令に背き、善悪の知識の木からとって食べたため、罰として追放された、というもの。

 2つ目は、アダムが命の木からも取って食べて永遠の命を得てしまう事を防ぐ為、アダムを追放して命の木から遠ざけた、というものです。

では、死生観に置き換えるとどうでしょうか?

 1つ目は「死は、アダムの命令違反への罰である」つまり、人間が死ぬ事に否定的で、永遠の命に肯定的です。

 ですが、2つ目に目を向けると「人間は永遠に生きるべきではない」……人間が死ぬ定めにある事に肯定的で、永遠の命に対して否定的と取れてしまうのです。

 この矛盾に対して、どの様な解答があり得るのか、小笠原先生があらかじめ用意していた3つの解答を超えて、様々な角度から議論が出ました。

 禁断の果実を食べた事で、「生」という概念を得たのではないか、もっと単純に時の権力者に合わせた形で成立していただけではないのか、そもそもエデンは実際にある場所として扱われていたのか……様々な論点が時に脱線し、合流し、そこからまた別の解釈を試みる様は文化学科だからこそ成立するものだったと、僕は感じます。

 6時と言う時間の制限が来て、惜しまれながらその日は解散となりました。この日行った充実した議論は、間違いなく僕の糧になる。そんな確信と共に、僕は帰路に着きました。

2017年10月6日金曜日

文化学科のお昼ごはん事情(LC16台 丸山ひまわりさん)

 今年度9回目の学生記事をお届けします。学生のみなさんは、どんなランチタイムを過ごしているのか?福大の学食はどんな感じなのか?LC16台の丸山ひまわりさんが「文化学科のお昼ご飯事情」というタイトルで楽しいお昼の時間の様子を紹介してくれました。



学生文化学科のお昼ごはん事情
LC16台 丸山ひまわり

 こんにちは。文化学科2年の丸山ひまわりです。

 大学生になって自由に使える時間が増えたので、よく友達と美味しいものを食べに行くようになりました。食べるって幸せですよね!ということで、私はアンケートをもとに、文化学科のお昼ごはん事情を紹介していこうと思います。

 文化学科2年生のLINEグループ(93人)で、WEBアンケートへの協力を呼びかけたところ、63人(67.7%)が回答してくれました。このLINEグループには、文化学科2年生(98人)のほとんどが参加しています。

Q1.「学校でお昼に、なにをよく食べてる?」の回答は、




 手作りお弁当    15人(23.8%)
 買ったお弁当or学食 48人(76.2%)

 「一人暮らしでお弁当を作るのは、相当な負担になるから。」「大学生になって、親にお弁当を作ってもらうことがなくなった。」という人たちが多く、8割近い人が、買ったお弁当や学食を食べるという結果になりました。学内には、ボリューム満点の学食や、リーズナブルな売店がたくさんあるので利用者がとても多いです。

Q2.「お昼ごはん、どこで食べる?」





 1位は教室でした!

 学食は、お昼すごく混むので、授業が終わるとそのまま教室で食べたりします。
 同じ授業の人たちとわいわい食べるのがすごく楽しいです!

 2年生になって専門教科が増えて、文化学科の人たちとさらに仲が深まり、毎日学校がすごく楽しいです!文化学科は1学年100人もいないので、雰囲気がアットホームです!

A棟7階の教室
天気のいい日には、外でたべてみるのもおススメです♪

 福大おすすめ食堂ランキング TOP3は、

  1位 ひだまり
  2位 オアシス
  3位 第2食堂

でした!!!

 文系の学生は、理系の棟の近くの食堂は、あまり使わないので、このような結果になりました。
ひだまりは図書館の横にあって、落ち着いた雰囲気のあるおしゃれな食堂です♪

 日替わりランチからパン、売店まであります。福大メロンパンは、ひだまりの名物です!お昼はすごく混みます!ですが、お昼の時間帯以外は勉強したり、楽しくお菓子を食べながら雑談したり、ゆったりとした空間です☆

「木曜日の3限は空きコマなので、すいている時間に利用しています!」

 このように人それぞれ福大でお昼を楽しく過ごしています♪

 皆さんも福岡大学にきたら、楽しいお昼が待っていますよ~!!!

2017年10月1日日曜日

主語と述語(小林信行先生)

 平成29年度第10回目の「教員記事」をお届けします。哲学の小林信行先生です。今回は、主語と述語をテーマとして、日本語、外国語を問わず難しくてわからない文章があるとき、主語となるものと述語となるものを明らかにすることで理解に近づけること、それどころか自分の生きている世界までも見えてくることをお話しいただいています。



主語と述語
   
     小林信行(哲学

 古典ギリシア語テキストの例題に「知識は魂の食べ物」という文がある。私はこれを「ことばはこころの養い」と解釈したい。ことばはわれわれの日常的な体験に勝るとも劣らない貴重な情報源である。子供の頃には理解できなかったことばが理解できるようになったとき、われわれはおとなのこころをもつようになる、つまりおとなになるわけだ。それが具体的にどのようなことなのかをここで少し特殊な形で説明し、ついでに語学(単に外国語ばかりではなく自分が幼少期から用いている言語もふくめて)の勧めをしてみたい。

 日本語であれ外国語であれ、相手が何を言っているのか理解できない、書かれていることが難しくて分からない、という経験は誰しももつのだが、何故それが難しいのか、理解できないのか、という問題に取り組むことは面倒なもので、つい敬遠しがちとなる。ましてや国語辞書や外国語辞書を引いても分からないとなると大抵のひとは音を上げてしまって他人に頼るか、最悪の場合はその努力すら放棄してしまうものだ。その状況を、ここではそのひとが物事を理解する自分流のフォーマットの限界に直面しているケースとして考えたい。簡単に言えば、それまではなんとなくやってこれたのに、そのやり方が通用しない状況に陥っていると考えてみたい。

Types
 そのときひとの直面する壁は困難の塊である。それを塊であるというのは、まだ分節化されていないという意味である。漠然とした塊に圧倒されて、それがどのような組成をもっているかに思いが及ばないのである。そのようなときまずはアリストテレスが『カテゴリー論』という論理学(そして合理性)の出発点となる書物の中で示してくれるヒントに従ってみることをすすめたい。問題となる塊(いまはなんらかの文章としておく)の主人公(その文の主題となるもの、つまり主語となるもの)とその記述(主語を説明するもの、つまり述語となるもの)を確認すること、これが問題の塊を分節化するための基本的フォーマットである。もしこのフォーマットがなければ、たとえばどこかに山があっても、それが美しいとか高いということさえわれわれには分からない。ただ自分がどこかへ行こうとするときにいつも行く手を阻むような抵抗勢力としてとどまるだけだろう。その山が高いのであれば克服もしよう、その山が美しいであれば愛しもしよう。そのときその山はわれわれの世界の中に入ってきているのだから。

 何語であれ、このように主語となるものと述語となるものを明らかにするだけでもずいぶん風通しがよくなるものだ。それどころか自分の生きている世界までも見えてくる。それほど主語と述語という考え方は重要であり、あとはほとんどその仕組みの組み立て方と周辺部の飾りなのだ。しかしこの基本フォーマットは習得・訓練の対象であり、簡単なのように見えて根気強い慣れが必要なのだ。というのも、主語と述語くらい簡単に分かると思えるが意外とその組み合わせがうまく理解できないことが多いからだ。人間はおとなになるにつれてその組み合わせ方に訓練を積んでいくものだ。基本的なフォーマットの中で多種多様な組み合わせがこの世界を作っていることをおとななら知っている。そしておとなはそれを食べてこころの養いとしている。単に語彙の豊富さだけがおとなのしるしではない。


□小林先生のブログ記事